日光山 密蔵院 光明寺 〜寺崎城跡~ 

宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来
285-0818 佐倉市寺崎2960






すってんぱれ!さんのツイートで、
いつかお参りしようと思っていた、
城跡に建つ寺院を思い出しました。



makoto-jin-rei.hatenablog.jp



密蔵院とPCX150



・・・てな訳で、
そばよし順天堂大学前店でランチの後、
佐倉市寺崎の寺崎城の城跡に建つ、
日光山・密蔵院・光明寺へ、
PCX150でやって来ました。
享保年間(1716-1736)に建立された、
真言宗豊山派の寺院です。



第十四番大師堂  鐘楼跡と梵鐘


本堂下の墓地の前に、
弘法大師空海を祀る、
大師堂がありました。
四国第十四番常楽寺の、
御詠歌ありましたので、
この辺りにも四国霊場の写しの、
八十八ヶ所があるのでしょう。
本堂の右隣に庫裏があり、
その庭に鐘楼らしき跡がありますが、
柱と屋根はなくなっていて、
梵鐘が直に置かれていました。



本堂  本堂内



本堂前には左右に、
不動明王立像と、
弘法大師空海巡錫の銅像があります。
お参りして本堂内を伺うと、
密壇の奥にご本尊の、
阿弥陀如来を拝せました。




密蔵院薬師堂  密蔵院薬師堂案内



本堂西の丘の上に、
薬師如来を祀る薬師堂があります。
三間四面の入母屋造ですが、
棟札や記録がないので、
建立時期が特定出来ないそうですが、
建築的な特徴から、
宝永年間(1704-1711)頃のものと、
推定されているようです。




薬師堂正面  薬師堂修復事業の案内



近く令和の大修理、
修復が予定されているようで、
その事業の計画と寄付を募る、
案内が貼られていました。



左脇から見た薬師堂



入母屋は元々は茅葺だったようですが、
残念なことにトタン波板が張られていました。
おそらく朱塗りの塗料も屋根のペンキで、
時代考証に合ったものではないでしょう。




薬師堂の扁額「琉璃殿」  薬師堂内



薬師堂の扁額は、
「瑠璃殿」ではなく、
「琉璃殿」の表記と思われます。
本尊の薬師如来秘仏のようで、
御簾の前に小さなお前立があり、
左右に日光・月光菩薩らしき、
金色の立像が脇侍であります。



力石と大師堂


薬師堂の左脇に、
力石とまた別の大師堂があります。



富士塚と稲荷



さて境内の西端には、
また小高い丘があります。
丘の右下には稲荷神を祀った、
小祠がありますが、
この丘は寺崎城の時代には、
物見台だったようデスが、
寺院となり神仏習合の時代に、
富士塚となったようです。



富士塚の石祠(小御岳石尊大権現・富士山浅間大神)と寺崎城石碑  寺崎城石碑


丘の上の左には
小御岳石尊大権現こと、
天狗を祀る小御嶽神社と、
富士山浅間大神こと、
浅間神社の小祠があり、
富士山講の土産か、
富士山の溶岩らしき、
岩が置かれています。
この右に寺崎城の石碑があります。

寺崎城の詳細は不明ですが、
千葉胤直の嫡子、
胤将が築いたと伝わる城で、
胤将の子の則胤の時に、
胤直の弟の馬加康胤が、
千葉氏宗家乗取りを謀り、
この城を攻撃して、
則胤は武蔵国に逃れます。
康胤は千葉氏宗家を名乗り、
本佐倉城を築いて居城した後、
嫡子・胤持を寺崎城主にしますが、
後に胤持も本佐倉城に移り、
その際に廃城となります。*1

そういえば本佐倉城も、
このブログでは一度も載せていませんね。
その内また訪問して載せます。




密蔵院からの眺めパノラマ  密蔵院からの眺め



この富士塚からの眺望がまた絶景。



上から見た野焼き1  上から見た野焼き2



野焼きの火が高く上がって、
ワタシはびっくりして、
思わずツイートしましたが、
後で帰り道に下道を走っていると、
田んぼのそこいら中に、
大きな火が上がっていました。









下で見た野焼き
(帰り道に間近で見た野焼き)






神明社の鳥居  神明社



現本堂の北西、
薬師堂の北東の鬼門に、
胤将が築城の際に、
猪鼻城から勧請したという、
神明社があります。



紅梅











*1:千葉氏系図については諸説あります。ここでは石碑の説の概略を記載しました。