【関東第十六番】竹園山 最勝寺 教学院 (目青不動尊)

宗派 天台宗
本尊 上品上生阿弥陀如来
154-0004 世田谷区太子堂4-15-1





教学院とレブル1100




世田谷区内の得意先を訪問したので、
今年2月7日にご朱印を頂けなかった、
等々力不動尊に立ち寄りました。
また同じ日に緊急事態宣言発令中、
ご朱印の授与を中止していた、
目青不動尊・竹園山最勝寺教学院に、
改めてお参り致します。








不動堂とレブル1100




まずは元々は閻魔堂だったという、
不動堂にお参り致します。




お前立 青銅不動明王座像




お前立の青銅不動明王座像に、
不動明王真言を唱えてご挨拶。



本堂



不動堂の向かって左奥にあるのが、
上品上生阿弥陀如来を祀る、
本堂かと思われますが、
残業ながら非公開のようです。




庫裡



本堂の左手前にある庫裡の、
左側の勝手口が納経所になっています。



第16番ご朱印



無事、第十六番のご朱印を頂戴しました。




目青不動尊リーフレット(裏)  目青不動尊リーフレット(裏)




ホームページはないようですが、
詳細なリーフレットを頂戴したので、
お寺の縁起はこちらをご覧下さい。


    救学院縁起
 創建は応長元年(1311)で、江戸城紅葉山
にあったという。本尊は阿弥陀如来であり、
開基は法印玄応大和尚である。その後太田道
灌の江戸城築城により麹町貝塚に移され、ま
た赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南
に3000坪余りの土地を拝領してみたび移転し
た。青山南町は百人町ともいわれ、百人の同
心が住んでいたという。この同心百人のうち
37人が教学院の檀家に、63人が信者になり
念仏講を結んでいた。この講の維持に一人三合
宛の米を奉納していたので「三合山」とも呼
ばれ親しまれていた。この佛米拠出により閻
魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏
が盛んに行われていた。
 当院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、
小田原城主・大久保加賀守忠朝の書提寺とな
るに及び、東叙山寛永寺の末寺となった。
明治8年には境内地100坪をさいて「幼童学
校」を創立したが、後に青山南町小学校に発
展した。
 その後太政官布達により、明治42年より3ヵ
年を要して世田谷の現在地に移転し現在に至っ
ている。

 目青不動麻布谷町にあったという正善寺
(観行寺)の本尊であったものが、同寺の廃寺
にともない教学院に遷し奉られたものである。
華厳経巻七・賢首菩薩第八に説かれるところ
の天上界と地上界の間にたなびく青い雲の色
に基づく不動尊であることから、天と地の連
絡をしてくださるといわれ、いつしか「緑結
びの不動」として信仰を集めている。
目青不動尊は慈覚大師円仁ご自作の尊像で
あり、秘佛としてお厨子に納められており公
開されていない。お前立の不動尊は、座高1
メートル余りの青銅製で、寛永19年(1642)
正月11日の銘がある。丸顔で上下の牙歯がな
く、微笑を湛えているようにも見えるえくぼ
が女性的である。
 また江戸時代より五色不動(五眼不動)の
一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色
(五色)を合わせたもので、将軍家光の時代に
成立したといわれている。
 昭和61年に、関東三十六不動霊場の第十六
番に加えられ多くの巡拝者にお参りされてい
る。

目青不動御詠歌】
あらたなり うきよにくるしむ もろびとは
 たすけたまへる めあおふどうそん

【寺宝】
 本尊上品上生阿弥陀如来
 秘佛目青不動明王
 青銅不動明王座像
 閻魔大王座像
 奪衣婆座像
 宇賀神像 ・・・・・ほか

【著名人の墓】
 小田原城主大久保氏歴代
 野州烏山城主大久保氏歴代
 厚木荻野山中藩大久保氏歴代
 岡本秋暉(画家)
 岡本碧巌(書家・秋暉の長男)
 古畑玉函(小田原藩漢学者) ・・・・・ほか


 また、境内には世田谷区名木百選に挙げら
れている「チシャノキ」があるが、青山から
移転の際に、荷馬車二台で運ばれたというか
ら、既に100年以上の古木である。



ありゃ?、「チシャノキ」気がつかなかった。
お墓も掃苔すればよかったなぁ。
また近くに来たら再訪致します。