宗派 天台寺門宗 総本山
本尊 如意輪観世音菩薩
ご詠歌 いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
520-0036 大津市園城寺町246
公式サイト http://www.shiga-miidera.or.jp/
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さて、第十四番の石山寺から、
やはりビッグネームの巨刹、
第十四番・園城寺こと三井寺の、
有料駐車場に到着したのは午後2時です。
こちらもやはりその歴史等は、
6年前のその一や、
公式サイトをご覧ください。
前回は琵琶湖一周サイクリングの途中で、
西国札所の観音堂の下から入山しましたが、
今回はあえて本来の正面に近い、
仁王門前からお参り致します。
仁王門は大門とも呼ばれている重要文化財。
三間一戸・入母屋造・檜皮葺の楼門。
元は近江国・常楽寺にあった、
宝徳四年(1452)建立の仁王門ですが、
豊臣秀吉により伏見城に移築され、
慶長六年(1601)に徳川家康が寄進したもの。
金剛力士像は運慶作と伝えられています。
仁王門をくぐり、
金堂に至る参道のすぐ右側には、
釈迦堂(食堂)があります、
建物は重要文化財で、
本尊は清凉寺式釈迦如来。
こちらもそもそもは、
天正年間(1573-1593)造営の、
京都御所の清涼殿を下賜されたもので、
元和七年(1621)の移築です。
文政年間(1818-1831)に、
唐破風の向拝が増築されています。
石段を上がると国宝の金堂。
園城寺は文禄四年(1595)に、
秀吉により堂塔が破却されますが、
その頃のこちらのそもそもの金堂は、
信長の比叡山焼き討ちの復興の一助として、
延暦寺西塔に移築され、
釈迦堂転法輪堂となりました。
現在のこの金堂は、
園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志で、
高台院が慶長四年(1599)に寄進したもの。
本尊は弥勒菩薩。
用明天皇の時代に百済より渡来し、
天智天皇の念持仏となり、
園城寺草創の際に、
天武天皇が本尊として安置したと伝えられます。
鐘楼も重要文化財で慶長七年(1602)の再建。
金堂の左手前にあって近江八景の一つ、
「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊ります。
閼伽井屋も重要文化財で、
金堂の西側に接して建つ小堂です。
格子戸の奥にある岩組から、
霊泉が湧出しています。
この泉が天智天皇・天武天皇・持統天皇の、
三帝が産湯に用いたことから、
御井・三井と呼ばれて、
御井寺→三井寺と呼ばれるようになりました。
現在の建物は金堂と同じく、
高台院の寄進で慶長五年(1600)の建立です。
霊鐘堂には、
重要文化財の霊鐘、
奈良時代作の、
「弁慶の引摺鐘」を安置。
そもそもは藤原秀郷が、
三上山の百足退治の礼に、
竜宮から持ち帰った鐘を、
三井寺に寄進したとの伝承で、
その後、弁慶が奪って、
比叡山へ引き摺り上げて撞くと、
「イノー・イノー」
帰りたい帰りたいと響いた為、
弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てそうです。
確かにこの鐘には、
引き摺ったような傷と割れ目があります、
文永四年(1267)に比叡山延暦寺より、
三井寺に戻されたそうですが、
ん?
谷底に捨てたんぢゃなかったっけ。
この鐘の隣には弁慶の汁鍋という大鍋も置かれています。
一切経蔵も重要文化財で、
室町初期の禅宗様経堂ですが、
毛利輝元の寄進により、
慶長七年(1602)に周防国山口の、
国清寺(現・洞春寺)の経蔵を移築したものだとか。
三重塔も重要文化財で、
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。
これまた奈良県の、
比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を、
慶長二年(1597)に秀吉が伏見城に移築し、
慶長六年(1601)に家康が寄進したもの。
寛文六年(1666)に、
後水尾上皇の寄進で再建された、
長日護摩堂と、
重要文化財の灌頂堂の後ろに、
重要文化財の大師堂が少しだけ見えます。
智証大師円珍の廟所で慶長三年(1598)の再建。
こちらにあの木造金色不動明王立像(重要文化財)と、
二躯の木造智証大師座像(国宝)が安置されています。
時代劇のロケでもよく使われている、
村雲橋の掛かる参道を南へ。
この村雲橋は昔、
智証大師円珍が渡ろうとした時に、
西の空をご覧になって、
長安の青竜寺が焼けていることを感知して、
早速真言を唱えて、
橋上から閼伽水をおまきになると、
橋の下から一条の雲が湧き起り、
西に飛び去ったそうです。
後日、青竜寺からは、
火災を鎮めていただいた、
礼状が届いたんだとか。
それ以来この橋をムラカリタツクモの橋、
村雲橋と呼ぶようになったんじゃ。
この園城寺別所・微妙寺の本堂は、
安永五年(1776)再建ですが、
昭和五十四年(1979)に現在地に移転。
その際に新たに中院となったそうです。
本尊は平安時代作の檜の一木造りの、
十一面観音立像でした。
毘沙門堂も重要文化財で、
元は別所・尾蔵寺の南勝坊境内に、
元和二年(1616年)に、
建立されたものだそうですが、
明治四十三年(1910)に、
三尾社の近く移築され、
更に昭和三十一年(1956)に、
現在地に移築されました。
三井寺の歴史は移築の歴史です。
さて、いよいよ観音堂の下に来ました。
百体観音堂も重要文化財で、
宝暦三年(1753)建立で、
堂内には正面中央に、
本尊の如意輪観音像を安置し、
左右には西国三十三所、
坂東三十三箇所、
秩父三十四箇所の、
それぞれの札所の本尊、
日本百観音を模した、
百体が安置されています。
観月舞台も重要文化財で、
嘉永二年(1849)建立。
脚下に足代を組んだ懸造の舞台。
そして札所の観音堂も当然重要文化財。
当初は後三条天皇の病気平癒を祈願して、
延久四年(1072)に西方の山上の華ノ谷に創建され、
当初は聖願寺や正法寺という名前でしたが、
文明十三年(1481)に現在地に移されまして、
貞享三年(1686)に焼失致します。
現在の観音堂は元禄二年(1689)の再建です。
本尊はやはり重要文化財で、
智証大師円珍作と伝えられる、
如意輪観世音菩薩像で、
33年に一度しか開帳されない秘仏です。
堂内には本尊の脇侍である、
愛染明王像(重要文化財)と、
毘沙門天像が安置されていました。
こちらで御朱印を頂戴しました。
観音堂の左隣には、
文化十一年(1814)再建の、
重要文化財の鐘楼があり、
珍しく中に入ることが出来て、
鐘を鳴らすことも出来ます。
最後は、文化財収蔵庫で、
三井寺の寺宝をしっかり目に焼き付けて、
本日の巡礼を終えて今日の宿に向かいました。
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