西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

【西国第十四番】長等山 園城寺 (三井寺) その二

宗派 天台寺門宗 総本山
本尊 如意輪観世音菩薩
ご詠歌 いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
520-0036 大津市園城寺町246
公式サイト http://www.shiga-miidera.or.jp/




長等山 園城寺 (三井寺) → その一




【前の記事】

⇩ ⇩ ⇩



三井寺駐車場とカローラツーリング




さて、第十四番の石山寺から、
やはりビッグネームの巨刹、
第十四番・園城寺こと三井寺の、
有料駐車場に到着したのは午後2時です。
こちらもやはりその歴史等は、
6年前のその一や、
公式サイトをご覧ください。




三井寺参拝ガイド



前回は琵琶湖一周サイクリングの途中で、
西国札所の観音堂の下から入山しましたが、
今回はあえて本来の正面に近い、
仁王門前からお参り致します。




仁王門  
金剛力士像  金剛力士像




仁王門は大門とも呼ばれている重要文化財
三間一戸・入母屋造・檜皮葺の楼門。
元は近江国常楽寺にあった、
宝徳四年(1452)建立の仁王門ですが、
豊臣秀吉により伏見城に移築され、
慶長六年(1601)に徳川家康が寄進したもの。
金剛力士像は運慶作と伝えられています。




釈迦堂


仁王門をくぐり、
金堂に至る参道のすぐ右側には、
釈迦堂(食堂)があります、
建物は重要文化財で、
本尊は清凉寺式釈迦如来
こちらもそもそもは、
天正年間(1573-1593)造営の、
京都御所の清涼殿を下賜されたもので、
元和七年(1621)の移築です。
文政年間(1818-1831)に、
唐破風の向拝が増築されています。




金堂へ上がる石段  金堂



石段を上がると国宝の金堂。
園城寺は文禄四年(1595)に、
秀吉により堂塔が破却されますが、
その頃のこちらのそもそもの金堂は、
信長の比叡山焼き討ちの復興の一助として、
延暦寺西塔に移築され、
釈迦堂転法輪堂となりました。
現在のこの金堂は、
園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志で、
高台院が慶長四年(1599)に寄進したもの。
本尊は弥勒菩薩
用明天皇の時代に百済より渡来し、
天智天皇の念持仏となり、
園城寺草創の際に、
天武天皇が本尊として安置したと伝えられます。






鐘楼  三井の晩鐘




鐘楼も重要文化財で慶長七年(1602)の再建。
金堂の左手前にあって近江八景の一つ、
「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊ります。



閼伽井屋  三井の霊泉



閼伽井屋も重要文化財で、
金堂の西側に接して建つ小堂です。
格子戸の奥にある岩組から、
霊泉が湧出しています。
この泉が天智天皇天武天皇持統天皇の、
三帝が産湯に用いたことから、
御井・三井と呼ばれて、
御井寺→三井寺と呼ばれるようになりました。
現在の建物は金堂と同じく、
高台院の寄進で慶長五年(1600)の建立です。



霊鐘堂
弁慶の引摺り鐘  霊鐘堂内




霊鐘堂には、
重要文化財の霊鐘、
奈良時代作の、
「弁慶の引摺鐘」を安置。
そもそもは藤原秀郷が、
三上山の百足退治の礼に、
竜宮から持ち帰った鐘を、
三井寺に寄進したとの伝承で、
その後、弁慶が奪って、
比叡山へ引き摺り上げて撞くと、
「イノー・イノー」
帰りたい帰りたいと響いた為、
弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てそうです。
確かにこの鐘には、
引き摺ったような傷と割れ目があります、
文永四年(1267)に比叡山延暦寺より、
三井寺に戻されたそうですが、



ん?



谷底に捨てたんぢゃなかったっけ。
この鐘の隣には弁慶の汁鍋という大鍋も置かれています。




一切経蔵



一切経蔵も重要文化財で、
室町初期の禅宗様経堂ですが、
毛利輝元の寄進により、
慶長七年(1602)に周防国山口の、
国清寺(現・洞春寺)の経蔵を移築したものだとか。




三重塔
三重塔近景  三重塔の案内



三重塔も重要文化財で、
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。
これまた奈良県の、
比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を、
慶長二年(1597)に秀吉が伏見城に移築し、
慶長六年(1601)に家康が寄進したもの。




長日護摩堂と灌頂堂  奥に大師堂を望む


寛文六年(1666)に、
後水尾上皇の寄進で再建された、
長日護摩堂と、
重要文化財の灌頂堂の後ろに、
重要文化財の大師堂が少しだけ見えます。
智証大師円珍の廟所で慶長三年(1598)の再建。
こちらにあの木造金色不動明王立像(重要文化財)と、
二躯の木造智証大師座像(国宝)が安置されています。






村雲橋の掛かる参道



時代劇のロケでもよく使われている、
村雲橋の掛かる参道を南へ。
この村雲橋は昔、
智証大師円珍が渡ろうとした時に、
西の空をご覧になって、
長安青竜寺が焼けていることを感知して、
早速真言を唱えて、
橋上から閼伽水をおまきになると、
橋の下から一条の雲が湧き起り、
西に飛び去ったそうです。
後日、青竜寺からは、
火災を鎮めていただいた、
礼状が届いたんだとか。
それ以来この橋をムラカリタツクモの橋、
村雲橋と呼ぶようになったんじゃ。



微妙寺



この園城寺別所・微妙寺の本堂は、
安永五年(1776)再建ですが、
昭和五十四年(1979)に現在地に移転。
その際に新たに中院となったそうです。
本尊は平安時代作の檜の一木造りの、
十一面観音立像でした。




毘沙門堂




毘沙門堂重要文化財で、
元は別所・尾蔵寺の南勝坊境内に、
元和二年(1616年)に、
建立されたものだそうですが、
明治四十三年(1910)に、
三尾社の近く移築され、
更に昭和三十一年(1956)に、
現在地に移築されました。



三井寺の歴史は移築の歴史です。




観音堂下



さて、いよいよ観音堂の下に来ました。



百体観音堂  観月舞台



百体観音堂重要文化財で、
宝暦三年(1753)建立で、
堂内には正面中央に、
本尊の如意輪観音像を安置し、
左右には西国三十三所
坂東三十三箇所
秩父三十四箇所の、
それぞれの札所の本尊、
日本百観音を模した、
百体が安置されています。
観月舞台も重要文化財で、
嘉永二年(1849)建立。
脚下に足代を組んだ懸造の舞台。




観音堂




そして札所の観音堂も当然重要文化財
当初は後三条天皇の病気平癒を祈願して、
延久四年(1072)に西方の山上の華ノ谷に創建され、
当初は聖願寺や正法寺という名前でしたが、
文明十三年(1481)に現在地に移されまして、
貞享三年(1686)に焼失致します。
現在の観音堂は元禄二年(1689)の再建です。
本尊はやはり重要文化財で、
智証大師円珍作と伝えられる、
如意輪観世音菩薩像で、
33年に一度しか開帳されない秘仏です。
堂内には本尊の脇侍である、
愛染明王像(重要文化財)と、
毘沙門天像が安置されていました。
こちらで御朱印を頂戴しました。



第14番御朱印



鐘楼
鐘楼入口  鐘楼の鐘



観音堂の左隣には、
文化十一年(1814)再建の、
重要文化財の鐘楼があり、
珍しく中に入ることが出来て、
鐘を鳴らすことも出来ます。



文化財収蔵庫



最後は、文化財収蔵庫で、
三井寺の寺宝をしっかり目に焼き付けて、
本日の巡礼を終えて今日の宿に向かいました。




⇩ ⇩ ⇩
【次の記事】