市川市立市川考古博物館

開館時間 9:00〜16:30
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料 無料
272-0837 市川市堀之内2-26-1
公式サイト http://www.city.ichikawa.lg.jp/edu14/1111000001.html




久しぶりのピーカンの日曜日。
”出たきり中年”の血がたぎります。
さぁ、チャリでどこかに行こう!!




→ 「二千七百の夏と冬」【上・下】(双葉文庫)



この小説を読んでから、
すっかりワタシは、
第?次縄文・弥生時代プチマイブーム。
以前タヤパンと車で行ったものの、
たまたま休館日で入れなかった、
市川の博物館に行ってみよか。



もうすぐ到着




習志野宅から一時間弱で、
小高い丘の上にある、
市川市立市川考古博物館の下に着きました。
この丘の上自体が「堀之内式」で名高い、
あの堀之内貝塚そのものなんです。



市川市立市川考古博物館  ホール(前室)




市川市立市川考古博物館に到着しました。
すぐ北西に市川市立歴史博物館もありますが、
「考古」は先土器(旧石器)時代から平安時代前半まで、
「歴史」は平安時代後半から現代までとの線引きです。
市川市はこの他、動物園や自然博物館があります。
(習志野市には郷土資料館一つもありません。)




写真撮影許可書



入場は無料です。
受付で写真撮影の許可を頂き、
堂々とRX100M3を取り出します。



糞石




まず出迎えてくれたのは、
いきなりのスカトロジー
ウンコの化石「糞石」です。
曽谷貝塚から発掘された、
約4000年から3000年前に、
ヒリ出されたシロモノですが、
人のモノか、犬のモノか不明とか。



小企画展「縄文の海を泳いだコククジラ」



ホールでは小企画展、
「縄文の海を泳いだコククジラ
が、開催ちう。




第一室 最初の住民:先土器(旧石器)時代



さて第一室は、
「最初の住民:先土器(旧石器)時代」。
市川に最初に人が住み始めた、
二万五千年の石器や食物が主な展示物。




縄文式土器  堀之内貝塚の生活の様子


続いて第二室は、
貝塚の形成:縄文時代」となり、
発掘された縄文式土器や骨などが並びます。



イノシシの顔が描かれた縄文式土器  新聞記事の切り抜き



昭和六十年(1985)に、
市川・権現原貝塚から出土した縄文式土器に、
イノシシの顔が描かれていることが、
平成二十三年(2011)に判明し話題になったとか。
正直ワシにはよーわからんかった。





姥山貝塚の人骨五体発掘の復元模型  





昭和元年(1926)の発掘調査で、
市川・姥山貝塚から、
縄文時代の竪穴式住居跡が計20件が発掘され、
これが日本考古学史上初めて確認された、
縄文時代の集落の発見になりましたが、
そのうちの一つに、
成人男女各2名と子供1名の、
計5名が重なり合うような姿の、
人骨が発掘されたものがあり、
考古学ファンには有名なミステリーで、
これがその復元模型。
五人の遺体は、
そのままそこに埋められており、
埋葬をした形跡もありません。
伝染病か?、一酸化炭素中毒か?
と、色々憶測がありますが、
伝染病ならこの家族以外にも、
集落に同様の住宅もあるはずで、
隙間ばかりの竪穴式住居で、
一酸化炭素が充満するとも思えない。
この住居跡からは、
フグの骨が発掘されたそうで、
フグ毒の集団中毒死という説もあるとか。
集落の人々は突然この家族が、
急に全員亡くなったもので、
恐ろしくなって、丸々住居ごと、
埋めてしまったのかもしれない。





人骨展示




発掘された人骨を用いて、
性別や年齢の見分け方、
そしてどのような生活をしていたのか、
説明、解説する展示物。
縄文時代には意味不明な、
「抜歯」の風習がありましたが、
実際、虫歯も多かったそうです。




堀之内貝塚発掘縄文時代後・晩期成人女性人骨  堀之内貝塚発掘縄文時代後・晩期成人女性の説明
堀之内貝塚発掘縄文時代後・晩期成人女性の説明  堀之内貝塚発掘縄文時代後・晩期成人女性



さてここ堀之内貝塚から発掘された、
縄文時代後・晩期成人女性です。
身長は158cmと、当時としては大柄か、
上顎左側第2切歯が、
風習により抜歯されています。
右の足首に障害の跡があり、
歩行が困難だったのではないか?
と、推測されています。
彼女はこの足でこの丘に立ち、
何を想い暮らしていたんだろう...。




第三室 農耕の開始:弥生時代  弥生式土器



さて、第三室は、
「農耕の開始:弥生時代」となり、
弥生式土器がズラリと並びます。




佐倉市天神前遺跡の再葬墓




その中で特に私が興味深かったのは、
この佐倉市天神前遺跡の再葬墓。
一旦土葬した遺骨を掘り出し、
この土器に収めて埋め戻したとか。
弥生時代にそんな風習があったのか!!



第四室 古墳の出現:古墳時代



そして第四室は、
「古墳の出現:古墳時代」。
市川には六世紀の法皇塚古墳があり、
それがその代表格。



国府の展示  和同開珎



そして第五室で、
律令の時代:奈良・平安時代」となります。
下総国国府があった市川は、
当時の下総国の中心でした。
あの和同開珎も発掘されています。




下総国分僧・尼寺の展示




当然、国分寺国分尼寺もありましたので、
今も「国府台」「国分」の地名が残ります。



市川市曽谷出土の誕生釈迦仏  誕生釈迦仏の展示札




曽谷出土?という、
11世紀〜12世紀の、
銅造誕生釈迦仏だそうだけど、
「千葉県最古の誕生釈迦仏」
は、いいけどさぁ...。
なんかその他の状況不明なの?

堀之内貝塚

国指定史跡 堀之内貝塚
272-0837 市川市堀之内2−2899
公式サイト http://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1521000004.html




→ 犢橋貝塚
→ 加曾利貝塚
→ 藤崎堀込貝塚
→ 「貝塚」関連の記事
→ 「国指定史跡」関連の記事





堀之内貝塚公園  堀之内貝塚の案内1
丘陵  堀之内貝塚の案内2




さて堀之内貝塚です。
縄文時代後・晩期の貝塚で、
先ほども申しましたが、
縄文時代後期前葉の土器が、
「堀之内式」ともされる標式遺跡です。
標高22mほどの尾根状の台地と、
その斜面に形成されている貝塚で、
縄文海進期には半島状になっていた。
と、推測されています。
東西225m・南北120mの、
中央台状型の二方向斜面に、
ハマグリ、アサリ、イボキサゴ、
オキシジミ等を中心とした貝殻が、
馬蹄型の貝塚を形成しています。
特に縄文時代後期前葉の頃の、
貝層が厚いそうですが、
貝塚層の下には、
竪穴式住居跡も発掘されていて、
先ほどの人骨も発掘されました。




山林  小祠




発掘前は鬱蒼とした、
山林だったそうで、
今もその名残りがあります。
貝塚や古墳等の遺跡には、
その存在が忘れられた後にも
信仰の対象になることがあって、
上に神社仏閣が建つことが少なくありませんが、
ここにもこの小祠があり、
市川市立堀之内貝塚公園」としては、
政教分離で頭の痛いところではないでしょうか。





地表の貝塚  地表の貝塚




小祠のすぐ脇には、
この貝塚層がはっきりと、
地表にあらわれていて、
この無数の貝殻が見て取れます。




土器の破片




よく目を凝らすと、
土器の破片のようなものも、
あちらこちらに散らばっております。

市川市立市川歴史博物館 〜坪井玄道像〜

開館時間 9:00〜16:30
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日)、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料 無料
272-0837 市川市堀之内2-26-1
公式サイト http://www.city.ichikawa.lg.jp/edu15/1111000005.html






市川市立歴史博物館



さて、お次は、
市川市立市川歴史博物館」。
こちらは平安時代後半から、
現代までの展示となります。




写真撮影許可証



ここでも改めて、
写真撮影の許可を申し出ましたが、
申請書も何も書かずに、
いきなりこの許可証を貸して下さいました。



ホール





ホールにはこのブログではお馴染みの、
松井天山の鳥瞰図が並んでいましたが、
残念ながらそれは撮影禁止でした。





→ 「松井天山」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地





第1室 中世以降の市川  「立正安国論」と「観心本尊抄」の複製




第1室は「中世以降の市川」で、
鎌倉時代から昭和まで、
市川にとって大きな意味を持つ、
史実を中心に取り上げています。
千葉県の少ない国宝の一つ、
中山法華経日蓮筆「立正安国論」と、
観心本尊抄」の複製も展示されています。





第2室 海辺の人々の生活  第2室 海辺の人々の生活  


第2室は「海辺の人々の生活」。
主に行徳地域の近世における塩づくりと、
近代の海苔づくりを中心とした展示。



第3室 水路と陸路




第3室は「水路と陸路」で、
旧江戸川筋や佐倉道など、
市川市にかかわる水路・陸路の、
その歴史と利用のされ方が説明されています。




第4室 台地の人々の生活




第4室で「台地の人々の生活」で、
台地の畑での野菜や梨、
谷津の稲作などの農耕や暮らしを、
実際の民家の一部を移して展示しています。




第5室 郷土コーナーの坪井玄道の展示  坪井玄道像




第5室は「郷土コーナー」。
市川にかかわる人物の紹介ですが、
現在は学校体育教育の草分けとされる、
「日本の体操の父」、
坪井玄道氏の業績と人柄の紹介でした。
「イチニ、イチニ」って体操するのは、
この方の考案なんだってさ。




→ 坪井玄道 - Wikipedia




屋外展示




屋外に大きな五輪塔や宝篋印塔、
力石、記念碑等の展示がありますので、
お見逃しのないようにご注意下さい。

そば・旬菜料理 つだぬまや その四

営業時間  11:30〜14:30/17:30〜21:00 [火は昼のみ]
定休日 水曜日
274-0825 船橋市前原西2-5-6





そば・旬菜料理 つだぬまや その → 




国分川  狭くなる進路




往路は千葉街道国道14号を、
西船橋の先から北上して、
中山競馬場の前から、
一旦松戸市内を通過するコースでしたが、
復路は、縄文人が海に出た、
その方向に想いを馳せて、
国分川に沿って南下します。
こののどかな風景に癒されるのも束の間、
市川市内はあちらこちらで、
都市計画道路が建設ちう。
いきなり道が狭くなり、
こんな細い砂利道になるなど、
いくつかの障害を乗り越えて、
国道14号に戻りまして、
どうにか船橋市内へと帰りました。



大新庵  都合によりしばらく休みます



さてガツンと蕎麦が手繰りたくて、
船橋の生蕎麦・大新庵に来ましたが、
「都合によりしばらく休ませて頂きます」
との、臨休のお知らせが貼られています。



→ 生蕎麦 大新庵




つだぬまや




結局、津田沼に戻りまして、
いつものつだぬまやにやって来ました。



北海道石狩沼田産




「新そば」の貼紙が出ています。
そうそう、ここは、
北海道石狩沼田産のキタワセ種でした。



蕎麦茶と蕎麦揚げとおしぼり



お馴染みの蕎麦茶と、
座布団状の揚げ蕎麦が、
汗をかいた後なので、
ひときわ美味いです。



天丼御前(980円+税)




天丼御前(980円+税)。




新蕎麦  蕎麦を手繰る



新蕎麦は文句のない、
香りとコシ。
のどごしもよくて、
かなり美味いデス。



天丼  ごまドレッシングのサラダ



天丼はとても小さいんですが、
海老、ミョウガ、カボチャ、
舞茸と、盛り沢山。
ごまドレッシングの、
サラダもなかなかの量で、
満足度はかなり高いデス。




蕎麦湯を注ぐ  蕎麦湯



蕎麦湯も食べ終わる頃を、
見計らって出され、
熱々たっぷりで嬉しい限り。




KK




当然KKでご馳走さま。
大満足の980円+税でございました。

藤崎堀込貝塚 その二

千葉県指定史跡
275-0017 習志野市藤崎1-13



→ 藤崎堀込貝塚 その一



→ 堀之内貝塚
→ 犢橋貝塚
→ 加曾利貝塚
→ 「貝塚」関連の記事





東金(御成)街道の案内



        
この東金御成街道を下りまして、
習志野市内の自宅すぐ近くまで戻りました。
折角なので、最寄の貝塚にも立ち寄ります。
この案内板にある御成街道成立以前の名残り、
藤崎古道を通って見ましょう。





藤崎古道下  鬱蒼とした藤崎古道
藤崎古道の小祠  上から見た藤崎古道



晴れた日でも薄暗い
この鬱蒼とした竹林にある藤崎古道。
ここにもやはり祈りの対象である、
小祠が祀られているのがとても印象的。




藤崎堀込貝塚




さてその藤崎古道の上にある、
畑の真ん中に浮かぶような、
藤崎堀込貝塚です。




藤崎堀込貝塚の案内板





さてこの藤崎堀込貝塚は、
標高約21m、幅300mほどの
台地上の一角に位置しています。
貝塚は南北80.5m、東西60mの規模で、
西側に開口部をもつ馬蹄形貝塚ですが、
現代周辺一帯は私有地の畑になっています。
この貝塚が形成された時代には、
このすぐ下の谷の菊田川まで、
海が入り込んでいたと考えられています。
過去3回発掘調査が実施されており、
1回目は昭和四十年(1965)、
千葉大学地理学教室により、
地質学的な研究を目的としたもの。
2回目は昭和四十一年(1966)、
立正大学考古学研究室により、
地形測量とボーリング調査が行われ、
これによりこの貝塚が、
馬蹄形であることが判明しました。
3回目は昭和五十一年(1976)、
習志野市教育委員会により
貝塚の様相を知る為に、
本格的な発掘調査が実施され、
その調査の結果この貝塚は、
約4,000年前の、
縄文時代後期初頭から、
小規模な形成が始まって、
縄文時代後期前半から、
後期中葉にかけて、
約500年間に渡って、
大規模に形成されたことが判りました。
貝塚の周辺からは縄文時代中期の、
遺物も出土しており、
竪穴式住居跡もあったことから、
縄文中期から人々がこの遺跡で、
生活を営み始めたことも推定されています。
多量の縄文時代後期の土器や石器のほかに、
貝層内から多量の動物の骨が出土。
貝層はイボキサゴが主体で、
他にオキアサリ、ハマグリ等が見られます。
魚骨は、マイワシ・イシダイ・マアジ・サバ、
また淡水魚のコイなど、
獣骨では、ニホンジカ、カエル、
鳥類などが見られるとか。
この貝塚は、東京湾東岸に見られる、
典型的な馬蹄形貝塚の一つですが。
都市部にこのような貝塚が残っている点が、
大変貴重なケースなんだとか...。




浅間神社の鳥居  浅間神社(富士塚)



馬蹄形の中心部には、
天保四年(1833)に、
富士山のものと思われる、
火山性溶岩が運び積まれた
富士塚が造立されていて、
浅間神社として祀られています。
封建時代のこの地の住人達は、
この貝塚の中心を、
一体どう捉えていたのでしょうか。




地表の貝殼  土器の破片




私有地の畑の表面には、
無数の貝殻が散らばっておりますが、
この辺りでは明治・大正・昭和にかけて、
肥料として貝殻を撒くことが流行したそうで、
一概に貝塚のものとは断定出来ません。
しかし土器の破片のようなものは、
すぐに見付け出すことが出来ます。




藤崎堀込貝塚から幕張新都心を望む




海が遠くなりました現代ですが、
ここから微かに幕張海岸近くの、
幕張新都心のビル群が見えます。



走行距離 34.96km
平均時速 18.4km/h
最高速度 42.9km/h
走行時間 1:53 33


ほんのささやかな自転車散歩で、
距離は僅かな移動でしたが、
五千年の歴史を遡る悠久の旅を、
心ゆくまで楽しみました。