かみさんの第九2006 その二 〜ドイツ兵捕虜の墓〜

ドイツ兵捕虜の墓





→ かみさんの第九2006 その一




昨日から息子達は義母と一泊で出掛けました。
かみさんは昨日の夜は前日練習です。
本番の今日は朝から習志野文化ホールに向いました。




私は一人、怖ろしいほどに静かな我が家が気味悪く、
ともかくどこかに出掛けようと考えます。




その一で紹介した、習志野俘虜収容所についてのサイト、

大正8年の青きドナウ
これを見た人はお気づきのことでしょうが、
これによると、このドイツ兵捕虜のうちの30名が、
不運にも日本で亡くなり、
船橋市習志野霊園に眠っているそうなので、
早速お参りしてきました。(船橋市習志野4-195-2)
小さな市営霊園。自衛隊習志野駐屯地に隣接しています。
元々は旧陸軍の墓地であったようで、
墓地中央奥に、大きな墓碑が三つ並び、
周囲を日露、第一次大戦日本兵戦死者の小さな墓石が囲みます。
大きな墓碑三基、
中央は日本軍人戦没者の慰霊碑、
向って右はソ連軍兵士の慰霊碑でした。
向って左が右上写真の、ドイツ兵の捕虜の墓です。




実はこのうちの25名は、大正7年の秋から世界中で大流行した、
スペイン風邪」(インフルエンザ)の被害者です。
第一次世界大戦はドイツの敗北をもって終結しましたが、
そのうちひしがれる習志野のドイツ兵をスペイン風邪が襲いかかりました。
なんと、所長の西郷寅太郎もこの病に斃れたのです。
大正8年1月1日。敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まそうと、
高熱をおし、医師が止めるのも聞かず、
年頭のあいさつをと、収容所へ向い、
その日の内に亡くなったそうです。
敗者への心遣いは、父より譲り受けたものでしょうか。




30名のドイツ兵の霊に合掌。
あなた達が無念で亡くなった東の果てのこの地では今、
毎年、あなた達の国の大使館の外交員を招き、
あなた達の言葉で、「歓びの歌」が歌われています。



すみません。
前置きがほとんどすべてになってしまいました。
バックステージを知っている習志野文化ホールです。
舞台にはドイツ国旗と日の丸が掲げられていました。
妻の熱唱する第九を聴きながら、
日本の土となったドイツ兵のことを考えていました。




すべての戦死者に感謝します。
平和をありがとうございます・・・。




さて、歴史ブログとしての豆知識。
CDこと、コンパクトディスクの歴史。



これ、大きさ(収録時間)を決める際に、
カセットテープの対角線11.5㎝(約60分)を主張するフィリップス社に対して、
「第九を収録できるように」とカラヤンが提言したことから、
当時ソニー副社長で声楽家出身の大賀典雄氏がそれを押し通し、
12㎝(約74分)が、規格になったといわれています。
なんと第九がCDの大きさを決めたっちゅーことですわ。
第九って、ほんと世界で愛されているんですね。
年末年始に限定されているのは日本独自のようですが・・・。



ともかくまぁ、もう来年の最低でも来年9月までは、
我が家の風呂から「♪フロイデェ〜」という、
大きな歌声は聞こえないことでしょう。
ご近所の皆様ご迷惑をお掛けしました。




かみさんが、合唱団解散式後、
こんなシールが貼られている缶ビールを、
もらってきました。
ビールに貼られたステッカー  


フロイデ!
心に響く感動を共有できたことを幸せに思います。
今回は皆さんと「乾杯」できませんが、
お帰りになってご家族、恋人、友人と〝フロイデ〟と言って、
乾杯してください。
次回もご一緒に歌えることを願っています。
NPO法人習志野第九合唱団
団長 海老原幸作
理事長 川谷聡
ホール内では飲まないでください。
車を運転されるか方は特にご注意ください。


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