国指定史跡 楠木正成墓碑
旧別格官幣社
祭神 楠木正成公(大楠公)
650-0015 神戸市中央区多聞通3-1-1
公式サイト http://www.minatogawajinja.or.jp
→ 楠木正成像
→ 恵光山 徳蔵寺 〜楠木正成首塚〜
→ 「徳川光圀」関連の記事
神戸駅近くの法人を訪問すると、
こちらの「湊川神社」の案内を見かけました。
「湊川」と聞けば歴ヲタならば、
すぐに南北朝の「湊川の戦い」を連想し、
ここがあの古戦場跡であると、
すぐにピンと来ました。
少しだけ時間があったので、
駆け足で参拝致しました次第。
季節柄平日ながら、
七五三詣の家族で賑わう境内。
でもお父さんお母さん、
こちらの由緒や、
御祭神がどのような方々か、
本当にご存知なんですかねぇ?
原則、神社は寺院とは異なり
死の「穢れ」を避けるので、
たとえ主祭神の墓であっても、
境内に祀ることはほぼありません。
こちらは元々楠木正成公の戦没地であり、
古くから墓所とされていた場所で、
正式に正成公を主祭神とする、
この湊川神社が建立されたのは、
維新後の明治五年(1872)のこと。
それでもやはりこの東南の墓所と、
終焉の地である西北の殉節地は、
神社境内と一線が引かれています。
大楠公一族御殉節地・御墓所は、
古くからあったそうですが、
かなり荒廃していたそうで、
現在のこの墓碑は、
あの水戸黄門こと徳川光圀が、
家臣の助さんこと佐々宗淳を使い、
自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」を謹書して、
元禄五年(1692)に竣工したもの。。
幕末にはこれが勤王志士達、
薩長土の精神的支柱となりました。
ちなみにこの亀の上に建つ碑は、
「亀趺碑」といいます。
蛇足になりますが当の徳川光圀や、
大久保利通の墓もこの形状です。
この墓所は国の史跡に指定されています。
お土産でこの拓本の表裏が、
初穂料2000円で頂けるようなんですが、
ちょっと欲しかったものの、
残念ながら係員さんが不在でした。
先ほど申した通り表面は光圀自らの謹書で、
裏面は明の儒学者・朱瞬水の楠公画賛に、
二行加筆したものを岡本元春が謹書したもの。
吉田松陰はこの拓本を松下村塾に掲げていたとか。
墓碑の手前右側に、
この功績を記念して、
昭和三十七年(1962)建立された、
徳川光圀公銅像があります。
人間国宝・平櫛田中の作で、
隠居後の西山荘での姿を忠実に模したものとか。
(え?帯もしないで徘徊してたの???。。。)
楠木正成に正一位が追贈されたのは、
この湊川神社が建立された八年後の、
明治十三年(1880)のことで、
墓所に並ぶ古い石灯籠の多くには、
「贈正三位正成卿碑前」という文字が見えます。
また湊川神社の境内の隅に、
元々は西国街道にあったという、
弘化三年(1846)建立の、
「従前楠公石碑道」
と、いう標石も現存しています。
多くの人物顕彰神社と同様に、
御祭神の御一代記が参道にあります。
表門の前に鳥居はなく、
境内中央にこれが、
現在の一の鳥居なのか、
石鳥居が一つあります。
ちなみに表門の前にあった社号標は、
昭和十年(1935)建立の大鳥居が、
神戸大空襲で倒壊してしまい、
昭和二十七年(1952)に再利用したもの。
社殿もやはり神戸大空襲で焼失し、
現在のものは社号標と同じく、
昭和二十七年(1952)の再建。
拝殿の巨大な天井の絵は、
日本全国の著名画家が奉納したもので、
中央の「大青龍」は福田眉仙作、
その右四枚の板画「運命」は、あの棟方志功が、
ニーチェのツァラトウストラに、
暗示を受けて創造した作品なんだとか。。。
境内の西北の角に、
延元元年(1336)、
楠木正成が弟正季以下一族と、
「七生滅賊」を誓い自刃したという、
殉節地 (史蹟 ・楠木正成戦没地)があります。
ワタシのブログの終焉の地シリーズに、
もう一つ新たな項目が加わりました。
【終焉の地】のブログ記事
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→ 楠木正成
大楠公の遺品を多く収蔵するという宝物殿ですが、
残念ながら毎週水曜日は休館日とか。。。
とてもとても残念ですが、
そもそも時間がなかったので、
正直ホッと致しました。
時間に余裕がある時に、
近くに来たら再訪します。