西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

広瀬武夫墓

107-0062 港区南青山2-32-2 青山霊園1種イ21区9側11番




先日お約束の青山霊園の第二弾。
今日は大日本帝国軍人の、
「軍神」第一号、廣瀬武夫さんです。




→ 乃木神社
→ 東郷神社




帝国軍人の「軍神」といえば、
上の二つのリンクの、
過去にこのブログで紹介した、
乃木希典を祀る乃木神社と、
東郷平八郎を祀る東郷神社が有名ですが、
実はこの広瀬武夫さんも、
この竹田市の広瀬神社の主祭神です。




→ 広瀬神社 (竹田市) - Wikipedia



明治三十年(1897)に、
ロシアに留学し、
ロシア語も堪能となり、
ロシア駐在武官だった広瀬さん。
とっても真面目で実直な方で、
元々、遊郭なども大嫌い。
今も残る女性との交際の逸話といえば、
ロシア海軍少将の娘さんとの文通ぐらい。




ロシアを愛する広瀬さんにとって、
日露関係の悪化は、
とっても辛いことであったでしょう。
明治三十五年(1902)に帰国、
明治三十七年(1904)日露戦争開戦。
旅順港閉塞作戦についた彼は、
第二回閉塞作戦で、
福井丸を自沈させる為、
爆薬に点火してボートで退避しようとすると、
部下の杉野孫七一等兵曹がいない!。
広瀬は船内に戻り三度も捜索しますがどうしても見つからず、
やむなく退避しようとした途端、
砲弾が直撃し、肉片を一部残し、
頭部を吹き飛ばされて即死します。
享年三十六。
首をなくした胴体は岸に流れ着き、
ロシア軍により埋葬されたそうです
なお文通相手のロシア海軍少将の娘さんは、
広瀬の戦死を聞き、喪に服したとか。




→ 忠犬ハチ公像




日露戦争講和後、
更に軍国主義に進む日本。
国民の忠国心を高める為、
様々な逸話が利用されました。
この忠犬ハチ公の話もその中の一つですが、
危険な閉塞作戦に参加し、
さらに命がけで部下を救おうとした広瀬を、
「軍神」として祀り、
更なる国民の士気高揚に利用したのです。



この頃に広瀬神社が建立され、
東京の旧万世橋駅前に、
杉野孫七像とあわせた、
巨大な銅像が造られます。
何度か書いておりますが、
現代の東京三大銅像といえば、
西郷隆盛@上野公園
大村益次郎@靖国神社
楠木正成@皇居前広場




この万世橋の広瀬と杉野の像は、
戦後、GHQの指示で取り壊されてしまいますが、
戦前は東京を代表するほどの、
観光名所だったそうです。
歴史にタラレバはありませんが、
GHQが取り壊しを命じた銅像は、
これだけではないので、
もしこれらが現存していれば、
東京三大銅像の組合せは、
今と違っていたことでしょう。




広瀬と杉野の像は、
このブログに詳細な写真があります。




→ http://hogg.blog62.fc2.com/blog-entry-35.html




なんとこんな唱歌まで作られました。
勿論もう著作権は消滅しています。



尋常小学唱歌『廣瀬中佐』




轟く砲音、飛来る弾丸。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処、杉野は居ずや」




船内隈なく 尋ぬる三度、
呼べど答へず、さがせど見へず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよあたりに繁し




今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神廣瀬と その名残れど

広瀬武夫墓




「海軍中佐贈正四位廣瀬武夫墓」




さて肝心のお墓です。
青山霊園は、巨大な軍人の墓が多いんですが、
「軍神」にしては、小さくて地味なお墓です。
遺体が敵陣に流れてしまったことから、
生存説まであったそうですから、
おそらくお骨はここにありません。
このお墓には何が納められているのだろうか。




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