高津山 観音寺 〜関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑〜 【吉橋大師第十番】

宗派 曹洞宗
本尊 十九夜観世音菩薩
276-0036 八千代市高津1347




高津山観音寺




おそらく神仏分離令までは、
高津比竎神社と同一で、
神宮寺であったであろう、
高津姫の祀っていた観音様のあった高津山観音寺。
残念ながらその観音様は江戸中期の火事で灰燼に帰したとか。




不許葷酒入山門




この辺りでは禅寺すらが珍しいので、
この「不許葷酒入山門」の石柱も滅多にみかけません。
ちなみにこの柱は天保二年(1830)建立で、
裏面に「十九夜観世音菩薩」と刻まれています。
これがこちらのご本尊の正式名称であると、
私は勝手に推定しました。



吉橋組大師講石標




さてこの柱の左手には、吉橋大師講八十八ヶ所の、
石標であると思われる、
弘法大師が彫られたこの小さな石標です。
こちらは文化六年(1809)の建立。
左右側面にはそれぞれ「左 大和田村」「右 みやま村」と記されています。
方向が合わないのでどこかからの移設でしょう。



山門




大師堂




立派な朱塗りの山門をくぐると、
左手には吉橋大師、第十番の小祠です。
中を覗くと同じように彩色された、
同時代の製作と思われる木像のお大師さんがお二人。
右隣の小祠にも石のお大師さんが数名いらっしゃったので、
廃寺や廃堂になってしまったお大師さんが
ここに集められているのかもしれません。




本堂




なかなか大きくて立派な本堂。
壇中央には小さな観音様らしい金色の立像がいらっしゃいました。
江戸中期以降の再刻されたご本尊の観音様なのでしょうか。



八千代八福神・布袋尊




本堂右手には、前にも紹介した八千代八福神の布袋様です。



巨大な般若の面



さて墓地の方向に歩いています。
この大きな般若の木彫りについては、
なんの説明書もなく、まったく不明です。



慰霊詩塔




韓国式鐘楼



さてその先には日本の寺院にはあまり似つかわしくない、
原色に彩られた鐘楼と、大きな石塔がそびえます。
これは韓国式鐘楼と、慰霊詩塔です。




関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」




大正十二年(1923)9月1日、関東大震災
多くの死者を出した歴史に残る大災害ですが
地震や火事による直接の天災の死者だけでなく、
大災害の中で情報が遮断され、
まったく根拠のない噂やデマが信じられて、
殺されてしまった方々が大勢いることをご存知でしょうか。
朝鮮人が暴徒化し、井戸に毒を入れて放火して回っている。」
と、いうデマを信じていまった一部の日本人は、
多くの罪のない、多くの朝鮮人や中国人、
また外国人と間違えられた日本人を虐殺したのです。
この高津でも朝鮮人虐殺があり、高津事件とよばれています。
この塔や鐘楼はその霊を供養する為に建立されました
絶対に忘れても、また繰り返されてもならない、
そして次の世代に伝えねばならない、不幸な歴史です。




高秀霊神社




さて、この裏手に小さな門があり、
大きな石碑の裏にでます。
表に回り込めば、「高秀霊神社」と刻まれています。
おそらくこれが
「北斗北辰間宮庄五郎源高秀」こと間宮士信の墓なのでしょう。




さて病院に戻りましょう。




やはり長男は「オスグット病」、
次男は「踵骨骨端症」だそうです。



次男はあまり心配はないようです。
長男は、中学で陸上部に入部したかったんですが、
どうやら足の成長が終わるまでその痛みは続くんだとか。
おいらもその頃、痛かった覚えはあるけど、
膝が飛び出すほどではなかったけどなぁ〜。




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