砂川市有地神社政教分離訴訟の違憲判決について その二 〜中央区の石仏三景〜

砂川市有地神社政教分離訴訟の違憲判決について → その一




鎧橋の南東の袂

鎧橋の石造地蔵菩薩立像
103-0025 中央区日本橋茅場町1-1先


我が職場のすぐ近く、
日本橋川に掛かる鎧橋の南東の袂、
ちょっとした公園のようなスペースの角に、
一度割れていまったものの、つなぎ合わせたかのような、
石の小さなお地蔵さんが建っています。



石造地蔵菩薩立像



由緒書きや案内板もありませんが、
台座の右側をみてみると、
「大正十四年乙丑壱月吉日建立」
と、記されておりますから、
関東大震災の二年後ですので、
震災犠牲者慰霊の為に建立されたものかもしれません。
それとも川での水死者の供養か。


しかし、ここは上の写真の、
橋の補強工事の看板の通り、
中央区が管理する公の土地の上です。




中央区立桜川公園の一角

入一観音菩薩・入一地蔵菩薩
104-0042 中央区入船1-1 区立桜川公園内


また同じ中央区内の桜川公園の片隅には、
こんな小祠があって、
中には三体の石仏が祀られています。




入一観音菩薩と入一地蔵菩薩の小祠



入船一丁目の意か、
入一観音菩薩と入一地蔵菩薩です。
三体の内のどれかは不明ですが、
この内の一体は、ここにあった桜川を埋め立てた際に、
廃仏毀釈で川に投げ込まれたのか、
その川底から出土した石仏です。
管理は地元の町内会、供花は近所の花屋さんのようですが、
やはり地べたは当然、中央区の区有地です。




むしば祈祷石



小祠左隣には、
この「むしば祈祷石」もありますが、
これは民間信仰であって、
「特定の宗教」にはならずぎりぎりセーフでしょう。




入一観音菩薩と入一地蔵菩薩



しかし鎧橋の地蔵菩薩も、
この入一地蔵菩薩も入一観音菩薩も、
完全に「仏教」の仏様。




「仏教の宗派」までは特定出来ぬまでも、
他の宗教の信者からすれば、
あくまで「仏教」という一宗教。
「特定の宗教」に他ならず、
もし今、中央区民の一人が、
先日の違憲判決をもって、
これらの石仏を区の公の土地を無償で提供し、
宗教的に祭祀することは、
「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」と、
訴えたとしたら・・・、
おそらく中央区は撤去を含めた何らかの措置を、
執行せざるを得ないこととなるでしょう。





先日の違憲判決というものは、
これだけ重い意味合いがあるんです。



これは全国に無数にある案件です。
公道上にある四国遍路等の次の札所を示す、
道標、標石も同様です。




→ 空知太神社の画像 | 御朱印のススメ



このサイトの写真をご覧下さい。
違憲であるとされた「空知太神社」の画像です。
この通り実質はただ鳥居があるだけの町内会館なんです。



政教分離の原則は、
いつからこんなに杓子定規になってしまったのか。
なぜ今回最高裁は「違憲」としたのか。
現行の日本国憲法施行後も、
当初はもっと大らかだったはずです。
・・・身近にこんな例があります。



新富 消防地蔵尊

新富 消防地蔵尊
104-0041 中央区新富1-7-1


さて同じく中央区内の新富町
昭和十六年(1941)この地でに火災があり、
家具製作所の女性工員2名と、
助けようとした少年1名が命を落としました。
翌年、ここに京橋消防署新富町出張所が設立されるも、
消防隊員に負傷者が続出したり、
幽霊が出るという噂話が広がりました。
昭和二十八年(1953)、
京橋消防署は、地元町内会と協議し、
この出張所の一角にこの消防地蔵尊を建立します。
平成になって消防署出張所は閉鎖され、
ここは普通の民間のビルとなるものの、
お地蔵様はそのまま残り、
現況では何の問題もありませんが、
昭和二十八年から平成年間といえば、
当然、戦後の現行憲法下でのことであって、
消防署の出張所とはいえ、
東京消防庁の一施設の敷地内に、
地蔵菩薩を祀るというのは、
現代の尺度では考えられません。
もしここにまだ出張所があれば、
上の二例とまったく同じ対象になります。



政教分離が大らかだった時代のもう一例。




浄土宗の開祖・法然こと源空は、
円光大師として知られていますが
これは元禄十年(1697)に、
一番最初に東山天皇から賜った諡号であって、
五百年遠忌の正徳元年(1711)より、
なんと50年毎に、
時の天皇から大師号を賜っています。



正徳元年(1711)、中御門天皇より、東漸大師、
宝暦十一年(1761)、桃園天皇より、慧成大師、
文化八年(1811)、光格天皇より、弘覚大師、
文久元年(1861)、孝明天皇より、慈教大師、
明治四十四年(1911)、明治天皇より、明照大師。



ここまでは分かるんですが、
なんとなんと、現行憲法施行後の、
昭和三十六年(1961)、あの昭和天皇より、
和順大師が諡られています。




来年はまたその50年後に当たりますが、
今上天皇がまた諡号をするとは到底思えません。




これほどまでとは言わぬとも、
私は、憲法が云う「政教分離」とは、
政府が特定の宗教を強制することなく、
各自の信教の自由を保障するのであれば、
多少、いやかなり「余裕」があってよい、
あくまで努力目標程度のもので良いのではないかと思います。




そもそもこの国の庶民は、
一部の宗教・宗派の熱心な信者や、
その宗派の僧侶を除き、
この日本人気質が生み出したともいえる、
神仏習合の中にあって、
本地垂迹をつくり、
道教をも取り込んで、
独特の信仰を形成し、
現在の日本文化を築きました。



神道式・キリスト教式で結婚式を挙げ、
仏教式で葬儀を行うのが大多数の日本人。




明治維新廃仏毀釈という悲しい歴史もありますが、
それは神道自体が仏教を毀した訳でもありません。
神道は明治政府に利用されただけに過ぎません。




私はこのブログ開始当初、
無宗教」であると自称しておりましたが、
数々の巡礼によって考え直し、
今では堂々と「多宗教」であると称えている人間です。
例え「信仰に無自覚な人間」と分類されようとも、
私は今回の違憲判決については、
この通り、不当判決として、
あくまで断固反対です。







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