祭神 品陀和気命・息長帯比売命・帯中日子命
105-0001 虎ノ門5-10-14
公式サイト http://www.hachimanjinja.or.jp/
得意先の常務さんが、
新しいお客さんを紹介してくれました。
早速、先方にご挨拶をと、
「神谷町」へ伺います。
地下鉄メトロの駅名の「神谷町」ですが、
現在、港区虎ノ門に含まれており、
地名としては現存しません。
地下鉄駅開業当時は、
ここは「港区芝神谷町」だったそうで、
駅名はこれに由来します。
しかしこの桜田通りの歩道橋には、
「八幡町」とあります。
また「飯倉町」も現存しません。
昔はこの辺りの地名はもっと細分化されていたようです。
はて?、どこに八幡様?。
キョロキョロするとすぐに、
ビルとビルの間に、
この八幡神社がありました。
鳥居横にある石標には、
単に「八幡神社」とありますが、
どうやら「西久保八幡神社」というそうです。
さて更にまた違う地名ですかい?。
社名冠のこの「西久保」でありますが、
戻ってから調べてみると、
慶安三年(1650)頃までは、
この辺りが「西久保城山町」であったようで、
大火があって住民が移り住んだ先が、
現在の三鷹駅北口の「武蔵野市西久保」なんだとか。
文京区の諏訪山吉祥寺(きっしょうじ)と、
武蔵野市吉祥寺の関係と同じですね。
雨に濡れる石段を、
痛む踵でおっかなびっくり上ります。
いや実際は下りる方が辛いんです。
こちらの拝殿の後ろに、
巨大な霊友会釈迦殿が映っているのはご愛嬌。
小高い丘のようなこちらは、
縄文時代の遺跡「西久保八幡貝塚」でもあります。
古代の集落や、霊性のあるような泉が、
そのまま後に、神社仏閣や富士塚等になることは、
けして珍しいことでなく、
むしろ、そうではない方が珍しいほど。
さてさてこちら、
公式サイトの「縁起」を簡単にまとめます。
寛弘年間(1004〜1012)の頃、
源頼信が石清水八幡宮を勧請し、
現在の霞ヶ関の辺りに創建したそうですが、
長禄元年(1457)太田道灌が、
江戸城築城に際してここに遷座しました。
二代将軍徳川秀忠の正室で、三代将軍の生母、
あの浅井長政とお市の間の三女、崇源院が、
慶長五年(1600)に関ヶ原の戦いの、
戦勝祈願をしたとも伝わります。
なんとこちら、
明治維新の神仏分離までは、
神社ではなく、お寺であって、
「八幡山普門院」と称し、
東叡山寛永寺の末寺の、
天台宗の寺院であったとか。
手元の古地図を確認すると、
確かに「八幡社 普門院」と記されています。
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