祭神 宇迦之御魂大神
275-0011 習志野市大久保3-8
満腹で歩く、眉二郎からの帰り道。
このバス通りからちょっと住宅地に入ると、
路地の左側に、確か、お稲荷さんがあったことを、
ふと、思い出しました。
お稲荷さんとはあまりお付き合いがありませんが、
よくよく考えてみると、我が家に最も近い神社です
ちょっと寄り道してお参りしてみました。
一見、まるで農家の納屋にしか見えない、
拝殿、本殿の区分もなく
当然、狛犬も、眷属の小さな狐すらいない稲荷社です。
この朱色の鳥居がなければ、
誰も神社だとは気がつきません。
神額には「松山光正稲荷神社」とあります。
おそらくこれが正式名称でしょう。
右半分を生垣のような樹木に覆われています。
社殿の神額は右から左へ「社神荷稲山松」(←)。
サッシの雨戸で覆われた社殿。
向拝の柱が赤く塗られ、注連縄と鈴がなければ、
やはり神社とはまったく分からぬことでしょう。
草に包まれてしまった、
大正三年(1914)の奉納の手水鉢。
その隣には「松山神社稲荷記念碑」があります。
草を掻き分けて、蔓を取り去って、
碑の裏側を覗き込み読むと、
この碑自体は、昭和三年(1928)建立のようですが、
「明治四十五年(1912)八月三十日遷宮 記念碑」とあり、
地主・主唱者の名の後に、
寄付者と組合員が「いろは順」に記されていました。
はて?、なぜここに「松山」なのか。
まさか秋山好古に因んだものではありますまい。
家に戻って、とにかく色々と調べてみました。
まず、ここでいう「遷宮」とは社殿の建替えか、
それともただ近くから移動したことか?。
それでは「遷座」と表現されるはずです。
いや本社・本宮からの「分霊勧請」を、
「遷宮」としているのかもしれない。
そもそも「松山稲荷」という本社・本宮はあるのか?。
→ 松山稲荷 - Google 検索
→ ¼Rî×_Ð
→ 松山神社(大阪市東淀川区)
このグーグル検索一位の九州の神社ではないでしょう。
大阪のこの松山神社は祭神が違います。
それでは松山市の著名な神社か?、、、。
これも祭神がお稲荷様ではないので違います。
それでは松山のお稲荷さんを探してみると、、、。
→ 【伊豫稲荷神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
こんなところか・・・。
どうも違う気がします。
更にネットサーフィンを重ねると、
一つだけこんなブログに辿り着きました。
→ 松山稲荷・八幡稲荷・そして稲荷 ( その他文化活動 ) - ろーかる神社めぐり - Yahoo!ブログ
んんん?。
「松山通り」?、「松山商店街」??。
なんじゃそりゃ・・・、初耳です。
インターネットではここまでが限界か。
これからもう一度現地に戻ってから、
地元の図書館等を廻って調べてみます。
さて、バス通りの路地入口に戻りました。
この辺りは度々書いておりますが、
船橋市と習志野市の境界が複雑に絡みます。
この電柱案内は「船橋市三山2-1」ですが、
つい先日まで長男が通っていた公文式学習教室は、
「松山稲荷前教室」という名前だったのです。
はて、これが「松山通り」?、「松山商店街」??。
この神社の緑のみが目立つ、
閑静な住宅街そのもので、
とても信じられませんが、
この路地は徐々に南西にカーブして、
もう一本西側の道路に出て、
その道路は、東金御成街道へと合流します。
確かにまるで直近の京成大久保駅へは、
まるで無視するかのように、
JR津田沼駅へ向いています。
この東金御成街道は、
度々登場する通り江戸初期からの主要道路。
いまでもこんな土蔵の残る酒屋さん、
「張替酒店」がすぐ近くにあります。
→ 「騎兵」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地
京成大久保駅から、
現在の日大生産工学部津田沼キャンパスに、
南東の走る通りが、現在の大久保商店街。
この商店街にある渡辺酒店に併設された、
この「大久保商店街お休み処」には、
確か昭和の初めに書かれた、
鳥瞰図があったはずです。
これを目指して行って見ました。
→ 大久保インターネット商店街-ゆーろーどお休み処
→ 「秋山好古」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地
残念ながらここはまだ「秋山好古」一色の展示ばかりです。
この商店街の催し物で、
いつも見かける役員の方に聞いてみると、
その方のお店にしまってあるとか・・・。
後日見せていただけることになりましたが、
後ろ髪をひかれて他の展示を観ているとビンゴ♪、
なんと一角に「松山稲荷」の小さなコーナーと、
写真数枚と説明文がありました。
おおっ、どうやらあそこに「松山通り」と、
その「松山商店街」は実在していたようです。
大正十五年(1926)に京成大久保駅が開業するまでは、
この習志野騎兵旅団まで主なの交通は、
今のJR津田沼駅より歩くか、
またはこの間を人力車に乗って来たそうです。
(現代の私は京成バスに乗っています。)
この人力車の客待ち場がこの松山通り、松山商店街となったそうで、
この周辺では真っ先に形成された商店街だったそうです。
「松山通り」「松山商店街」は、
『神社の前の路地』というよりも、
『徐々に南西にカーブして、もう一本西側の道路に出』た、
その東金街道に接している道のようです。
数年前にバス通りが交互通行になるまで、
地元の人が抜け道に使っていた道路です。
明治四十五年(1912)の松山稲荷建立の様子と、
その遷座、遷宮なのか?、分霊勧請なのか、
いずれにしてもどちらかの祭事のようです。
先ほど観た鳥居は、平成十七年(2005)に建替えられたもので、
平成十八年(2006)に撮られたこの写真当時は白木だったようです。
この三年以内にお稲荷さんらしく、朱に塗られたのでしょう。
なるほど、拝殿・本殿の区別も無いのは、
あの社屋の中にこの明治四十五年(1912)建立の小祠があるからなんですね。
なぜか「昭和六十二年(1987)に伏見稲荷の分神を頂き祀る」とありますが、
稲荷神社の総本宮から分霊勧請をうけてもいいけどさぁ、
元々祀られていた「松山稲荷」の祭神はどうしちゃったんですか・・・。
そもそも、伏見稲荷のご分霊だったということか。
しかしなぜここに「松山」なのか、まだその疑問がまだ晴れません。
この後にここでこの商店街の会合があったようで、
何名かの役員さんがお見えになったので、その質問を重ねてみるも、
「松山出身者が開いた。」とか、私の冗談半分の「秋山好古の出身地に因んで。」とか、、、
諸説あるようですが、結局まったく分かりません。
仕方がないので、そのまま最寄の図書館に直行。
元々まったく人気のない、
郷土史コーナーを占領して陣取り、
関連資料を漁り探し集めて借り、家に担いで戻りました。
習志野市教育委員会「習志野市史 別編 民俗」(P206〜207)に、
「この戦前の松山通り(聞き取りによる)」図と、
「松山通り」「旅館」の項目があって、
大変詳しく載っていたのでここに一部引用します。
松山通り
現在の大久保商店街とは別に、かつては松山通りという繁華な商店街があった。
大久保商店街よりは、随分前から栄えていた通りである。
竹内土産物屋(杯、お盆など)、氷見屋(お菓子)、川西帽子屋、林洋服屋など
(軍)「御用」が並んでいた。全国から商家の師弟が移り住んで、
店を出しており、地元出身の経営者は少なかった。
なお、昭和初期に京成の大久保駅ができるまでは、
省鉄(国鉄、現・JR東日本)の津田沼駅と大久保の間には、人力車が走っていた。
松山通りにも、多くの人力車が客待ちで並んでいたという。
またこの通りは実ににぎやかだったが、すぐ裏手は竹やぶだった。
京成の駅前ではなかったので、後に商店街としてはさびれ、
今では住宅街の一つの通りにすぎない。
旅 館
軍があったため、人々が全国から集まり、旅館業が成り立った。
たとえば入隊時には兵隊本人だけでなく、見送りの人々がやってきた。
その時は、通りが人で埋め尽くされることも普通だった。
例えば松翠館はその一つである。
昭和一〇年(1935)に松翠館は現在の場所(大久保駅前)に移ったが、
それまでは松山通りにあった。最初、「たぎく屋」という名前だった。
将校のアイディアで、周辺に松が多かったことにちなみ、
松翠館と改名したという。入隊前の検査に来た兵隊が宿泊した。
料理屋も兼ねていた。やはり「御用」である。
敷地にあった稲荷社は、実籾から移した。
(以下、略)
なるほど、松翠館か・・・。
実はこの旅館、私達が結婚するときに、
田舎から集まった我が親戚一堂を泊めた宿だ・・・。
この本には「昭和一〇年(1935」)に、
「現在の場所(大久保駅前)に移った」
・・・と、ありますが、そこには元より支店があって、
現在はそれも完全に廃業してしまい、
その跡地はマンションになっています。
稲荷社は、元々実籾にあったものを、
松翠館の敷地内へと遷座したもののようです。
本題・疑問の「なぜここに松山か?」は、
「全国から商家の師弟」に「松山」出身という説もありえますが、
私はどうもこの「松翠館」と同様に、
多くの「松」と、高台の竹やぶの「山」から合わせ、
名付けられたものなのではないかと推定します。
あっ・・・、「翠」とは、まさに「青緑」。
「松翠」とは松の葉の緑。
しかしこれは、「松」と「山」そのものではないですか。
「松山」というこの地の俗称を、
その将校は、ただ「松翠」としただけなのだ・・・。
資料の一部に、探していた、
松井天山筆の昭和三年(1928)写生、
「千葉県津田沼町鳥瞰」図がありました。
大久保の部分を拡大してみてみると、
今でも同じ場所で、同じ屋号で、
営業している店が多いことに驚きます。
また左の下に「張替酒店」も大きく描かれています。
え゛っ、そもそも、先ほどお邪魔した、
「大久保商店街お休み処」がある渡辺酒店も、
元は「松山商店街」からの移転組じゃないですか・・・。
松山稲荷社は、かなり大きく描かれていますが、
上の「この戦前の松山通り(聞き取りによる)」図とは異なり、
少し離れた場所に建っています。
松が多く描かれているし、
神社が高台にあることも、
鳥瞰図に、よく表現されています。
私は自説に強い確信を持ちました。
さてさて、また一日・・・、
ラーメン二郎と郷土史研究で終わってしまった一日でした。
← 二つのブログランキングに参加しております。
← よろしかったら応援クリックをお願い致します。