宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀三尊像
298-0214 夷隅郡大多喜町新丁108
さて本多忠勝と、
その側室・乙女の方、
その正室・於久の方、
そして忠勝の次男・本多忠朝の墓があるという、
菩提寺の良玄寺にお参りします。
本多忠勝は元々一向宗(浄土真宗)でしたが、
三河一向一揆で本田正信など、
多くの本多一族が敵となる中で、
浄土宗に改宗したそうですから、
当然浄土宗のお寺でしょう。
天正十八年(1590)に、
この大多喜十万石を与えられた本多忠勝は、
文禄四年に下総小金(現在の松戸市)の、
古刹、東漸寺から、
団蓮社照誉遊嶽了学大和尚を招き、
百石を寄進して良信寺を建立して、
本多家の菩提寺としました。
慶長六年(1601)、
忠勝は伊勢国桑名藩に移封され、
慶長十五年(1610)に死去して、
桑名の浄土寺に葬られますが、
後にここ良信寺にも分骨されます。
また側室・乙女の方こと月量院は、
また正室で二代忠朝の生母、
於久の方こと見星院は、
忠勝移封後も大多喜に残り、
忠勝の死後の三年後の、
慶長十八年(1613)没。
そして忠勝次男・忠朝は、
父の旧領・大多喜藩の、
半分の五万石を継ぎますが、
その一にも記した通り、
慶長二十年(1615)大阪夏の陣で討死し、
三光院殿岸譽前雲州良玄大居士と、
法名を号したことから、
以降、良信寺を、
良玄寺に改称して現在に至ります。
良玄寺墓地の一番奥にある墓所。
左から、忠朝・忠勝・忠勝室の五輪塔。
う〜ん。。。ケチをつける訳ではありませんが、
分骨とはいえ十万石、五万石の、
大名の墓とは思えぬほどに小さな五輪塔。
二代藩主の母でもない側室と、
初代の正室で二代の生母とはいえ女性の墓が、
初代・二代藩主の墓石と、
まるで同規模というのも怪しい。。。
五輪塔三基の後ろにある、
三人の法名が記されたこの碑は、
昭和五十三年(1978)に建立されたもののようです。
墓地に隣接してあるこの忠勝公園には、
この正岡子規の句碑があります。
掘割や 藪鶯を 両の耳