国指定史跡 法隆寺旧境内
宗派 聖徳宗 総本山
本尊 釈迦如来三尊・薬師如来・阿弥陀如来
636-0115 生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
公式サイト http://www.horyuji.or.jp/
さて改めて法隆寺南大門前に戻りました。
法隆寺の玄関であるこの国宝・南大門は、
永享十年(1438)の再建。
これをくぐると正面に西院伽藍が見えます。
さて法隆寺は現存する世界最古の、
木造建築物群として、
世界にその名を知られておりますが、
再建論・非再建論など論争が尽きず、
現代も不明な点が多々有り、
「怨霊封じの寺」とも、
「謎の聖地」とも呼ばれています。
ただし「若草伽藍の調査」により・・・・、
スミマセン、この手のお話しを、
つらつら書いておりましたら、
おそらく一日分の容量を超えますので、
この辺で止めておきます。
m(_ _)m
回廊とその内部丸ごと国宝である、
法隆寺式伽藍「西院伽藍」の正面、
国宝・中門は残念ながらこの通り改修中。
「怨霊封じ」とも呼ばれる、
中央のエンタシスの柱や、
重文の阿吽の仁王像は全く見えません。
西院伽藍の西側にあるのは、
鎌倉時代建立の国宝・三経院及び西室。
重文の阿弥陀如来坐像と、
重文の持国天・多聞天立像を祀ります。
そして西院伽藍の西北の、
丘の上に建つ八角円堂は、
これも鎌倉時代建立の国宝・西円堂。
本尊は日本最大級の、
乾漆像の国宝・薬師如来坐像で、
小さな重文・十二神将立像と、
重文・千手観音立像を配します。
おいおい、もう国宝のオンパレードやないかい。
さて参拝料を支払っていよいよ西院伽藍内へ。
「撮影禁止」とありますが、
それは伽藍内部のみで外観はOKとか。
まずは木造五重塔として、
現存世界最古の国宝・五重塔。
持統天皇七年(693)〜慶雲三年(706)頃の建立。
内部の四面の塑像も、
国宝・塔本四面具として指定され、
東面は「維摩経」の場面、
北面は釈迦の涅槃、
西面は分舎利の場面、
南面は弥勒の浄土を表わしています。
また心礎内からガラス製の舎利壺と、
舎利容器が発見されたそうですが、
調査後に元の場所に戻されたそうです。
また写真ではなかなか分かり辛いとは思いますが、
屋根の上の双輪に大鎌が四本刺さっています。
これも他に例を見ないもので、
その目的は全くの不明とか。
さて五重塔の東隣は、
この西院伽藍の本堂であり、
法隆寺の中で最も尊い堂宇、国宝・金堂。
五重塔よりもさらに少し前の、
年代に建立されたものと推定されいてます。
内部は勿論撮影禁止で手元の資料の写しです。
中央には飛鳥時代の国宝・金銅釈迦三尊像、
左右には太子の父・用明天皇の為の、
同じく飛鳥時代の国宝・金銅薬師如来座像と、
母・穴穂部間人皇后の為に造られたものの、
盗難に遭い鎌倉時代に造り直した、
重文・金銅阿弥陀如来座像。
そしてこの如来三尊三体の、
四方を守護するのは、
日本最古の四天王像は白鳳時代の国宝。
そして中央の釈迦三尊像の左右に、
平安時代の国宝・吉祥天、毘沙門天。
実はさらりと記述をしておりますが、
この本尊が釈迦・薬師・阿弥陀と、
ずらり並ぶのも異例のことで、
この釈迦・薬師の光背の碑文が、
様々な論争の火種ともなっています。
また切手にもなっている金堂の壁画は、
昭和二十四年(1949)、
壁画模写作業中の火災で、
初層内陣の壁と柱を焼損し、
黒焦げの壁画(重文)と柱は、
大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているとか。
現在は再現パネルがはめ込まれています。
西院伽藍北西には、
奈良時代再建の国宝・経蔵で、
重文の観勒僧正坐像を安置しますが非公開。
経蔵と対称の位置にあるのが、
平安時代再建の国宝・鐘楼。
この中の鐘は白鳳時代の梵鐘で、
この鐘の音があの正岡子規の俳句で有名なもの。
"柿食わねども"鳴っていました。
さて西伽藍の北に配する国宝・大講堂。
延長三年(925)に焼失し、
正暦元年(990)の再建。
内部の薬師三尊像は平安時代の国宝で、
重文の四天王像が守護しています。
てか、やっぱり不思議ですよ、コレ。
金堂で薬師を祀っているのにまた薬師?
毘盧遮那とか弥勒如来なら分かるけど??
また、大講堂の前にある銅燈篭は、
徳川綱吉の母、桂昌院奉納のもの。
しかしあの八百屋の娘のオバハン、
関西でもいろんな寺社仏閣に登場しますな。
さて改めて写真撮影用にと、
鐘楼の前から金堂と五重塔を望みます。
出口側の南東に向かい振り返ると、
大講堂の奥の伽藍、
重文・上御堂が見えます。
鎌倉時代の再建で、
平安時代の国宝・釈迦三尊と、
室町時代の重文・四天王像を安置。
えーっ、また釈迦三尊と四天王????
通常は非公開ですが、
毎年11月1日〜3日のみ堂内を公開とか。
西伽藍を出ようと南東に至ると、
改修中の中門のエンタシスの柱が見えました。
・・・美しいです。
西伽藍の東側には、
平安末期の聖徳太子像を祀る、
鎌倉時代の国宝・聖霊堂。
伽藍の西側にあった西室に対する、
東室の南端を改造したものです。
西室・東室ともに、
僧が生活をした僧房ですが、
東室の東隣にはその下の僧の、
小子房・重文の妻室があります。
そしてまたその東隣に、
奈良時代の国宝・綱封蔵。
寺宝を保管するための蔵で、
かつてはこのような倉が、
三十三棟も建ち並んでいたそうです。
妻室と綱封蔵の間を北に向かうと、
突き当り右側に奈良時代の国宝・食堂と、
平安時代の重文・細殿があります。
この二棟はこの通り軒を接していることから、
「双堂」とも呼ばれています。
さてその食堂の北側に、
平成十年(1998)建立の、
中門、東宝殿、西宝殿と、
百済観音堂からなる伽藍、
大宝蔵院があります。
ここにこの夢違観音の名で知られる、
白鳳時代の国宝・観音菩薩立像と、
九面観音と呼ばれている、
唐請来の国宝・観音菩薩立像がおわします。
そして当然のことながら一番奥の百済観音堂には、
飛鳥時代生まれといわれる九頭身のスレンダー、
まるでメーテルのような国宝・百済観音。
百済と名付けられているものの、
実はその伝来や造像の経緯はほとんど不明で、
元禄十一年(1698)になって突然文献に登場します。
おそらく他の寺院から移されたものと推定されます。
法隆寺でも元は金堂の内陣の裏側に安置されるなど、
流浪を繰り返していた仏像で、
安住の地としてこの百済観音堂が建立されました。
さて大宝蔵院から、
食堂・細殿を回り込んで南に向かうと、
非公開の収蔵庫と無料休憩所の先の左側に、
宝物殿である大宝蔵殿があります。
こちらの入場は参拝料とはまた別料金。
ここも当然写真撮影禁止ですが、
この上野の特別展でお会いした仏様方と、
二年半ぶりの再会。
さて、珍しい三棟造りの、
奈良時代の国宝・東大門を東に出て、
そもそも聖徳太子の斑鳩宮の跡に建てられた、
上宮王院ともいわれる東院伽藍へ向かいます。
この西伽藍と東伽藍の間のに、
斜めに若草伽藍があった跡があり、
これが創建当時の斑鳩寺であり、
現在のこの西院伽藍は、
再建であるという説が一般的です。
・・・てか、そんなのどうでもいいじゃん。
長い歴史の中のたった数十年のこと。
傷みの激しい支院の土塀。
重文の四脚門をくぐると、
目前に東院伽藍が広がります。
行信僧都が天平十一年(739)に建立した東院伽藍。
その中心が旧一万円札裏の図案でも有名な、
国宝・夢殿です。
八角円堂内部の中央の厨子は、
長く秘仏とされていましたが、
明治初期に岡倉天心とフェノロサが白布を取り、
発見(?)したのが、聖徳太子等身といわれる、
飛鳥時代の国宝・救世観音像なんですが、
開扉は春秋の一定期間のみ。
重文の、絵殿・舎利殿、
回廊、礼門から外に出ると、
北南に鎌倉時代の国宝・東鐘楼があり、
今は「中宮寺」と刻された、
奈良時代の梵鐘が吊されています。
おそらく中宮寺の寺運が衰退した時代に、
法隆寺に渡ったものなんでしょう。
またその隣りで絵殿・舎利殿の、
その北側にあるのが、
奈良時代の国宝・伝法堂で、
これは聖武天皇の夫人、
橘古那可智の住宅を、
仏堂に改造したものです。