祭神 贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興公
146-0093 大田区矢口1-21-23
公式サイト http://nittajinja.org/
アポのある法人から来た、
添付ファイルの地図に従い、
蒲田から東急多摩川線に乗り、
武蔵新田駅で降りました。
はて?、「しんでん」ではなく、
「にった」と読むからには、
何か「新田氏」所縁の土地に違いない・・・。
そんな想像をしながら歩いていると、
この新田神社の前に辿り着きました。
なるほど、そうそう、
新田義興は新田義貞の次男で、
関東管領・畠山国清と、
その配下の江戸遠江守らに謀殺された武将。
正平十三年/延文三年(1358)、
新田義興は鎌倉奪還に向かう途中、
ここ多摩川の矢口の渡しで、
敵に待ち伏せられ、
船頭が船の底に穴を開け進退窮まり、
義興と家臣十三人(十四人説もあり)、
主従共々、自刃あるいは、
対岸に泳ぎ着いて斬り合いになって討死しますが、
遠江守は論功行賞に向かう途中、
この矢口の渡しで、
突如湧き出た黒雲の暴風雨に遭い、
船に穴を開けた船頭は川に落とされ、
驚いた遠江守は引き返すも、
雷火受けて落馬して数日後に狂死します。
主謀者・畠山国清の夢にも現れて、
義興の首塚のある入間川の在家や堂舎仏閣数も、
ことごとくが落雷によって焼失。
矢口周辺には夜ごと"光り物"が現れて、
往来の人々を悩ますようになったので、
近隣の住民が義興の霊を鎮めるために、
胴体を埋めた墳墓の塚の前に、
この新田明神社を創建しました。
そして江戸時代になると、
「自称・新田氏の末裔」の徳川家により、
武家信仰の神社として篤く信仰されます。
この御神木のケヤキは、樹齢約七百年。
江戸時代の落雷で幹が半分以上裂ても枯れず、
昭和二十年(1945)の東京大空襲では、
境内にも爆弾が落ちて、
社殿や周辺も全焼する中でも、
今も枯れずにある奇跡の霊木。
上部に宿り木が寄生しています。
この神木に触れると、
健康長寿、病気平癒、若返りの霊験があるとか。
この宝物殿は、
新田大明神縁起絵上下巻、
新田義興公御真筆、
新田義興愛用の和鞍など、
新田神社の社宝を収蔵しますが、
一般公開は年に一度、
十月十日の例大祭当日の、
正午より午後三時迄とか。。。
またこの巨大な矢守のオブジェは、
ここが破魔矢の元祖、
発祥の地であることを記念したもの。
本殿の奥、御塚後部には、
源氏の白旗を立てたものが根付いたという、
篠竹の「旗竹」があり、
けして神域を越えることがないそうで、
これに目を付けた江戸時代のトレンド仕掛人、
平賀源内が「厄除招福」「邪気退散」の、
「矢守」を作り、これが広まり、
破魔矢となりました。
明治四年(1871)に、
品川県により造営された社殿は、
東京大空襲で焼失しますが、
明治神宮で仮社殿として建てられていた、
神明造の本殿と幣殿を特別に下付されて、
昭和三十五年(1960)に復元奉建。
拝殿はその際に新築されたもの。
本殿後方にある約十五メートルのこの円墳が、
義興の胴体を埋めたとされる墳墓・御塚ですが、
古来よりこの中に入ると必ず祟りがあるといわれ、
「荒山」「迷い塚」などの別名もあるそうで、
現在は柵で囲われいます。
以前は御塚の中央には、
「舟杉」という大杉があったそうで、
義興の乗った舟を埋めたものが、
生育したものだという伝承があったそうですが、
現在は落雷で焼失してしまったとか。
近隣にはこの新田義興公所縁の、
史跡がいくつもあるようですが、
時間の都合ですべて探訪することは出来ません。