姫路城

国指定特別史跡 姫路城跡
開城時間 9:00〜17:00(夏季4/27〜8/31は18:00まで・いずれも入城は1時間前迄)
入城料 大人1,000円 小人(小学生〜高校生)300円
休城日 12月29日・30日
670-0012 姫路市本町68
公式サイト http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/





他の現存天守 → 松本城






JR神戸線の車窓から見た明石大橋  姫路駅改札




久しぶりに関東に戻らずに、
関西で過ごす週末の二日目デス。
今日はずっと行ってみたかった、
憧れの国宝・姫路城。
新大阪から新幹線で二駅ですが、
急ぐ旅でもありません。
神戸線の新快速に乗りました。
車窓から巨大な明石大橋が見えます。
それからほどなく姫路駅に到着。
改札はあちらこちらに、
姫路城の案内に溢れています。
つーか、それしかありません。




JR姫路駅  姫路駅前から姫路城を望む




さて姫路駅前に降り立つと、
北の伸びるメインストリートの先には、
この堂々たる白鷺城が聳えます。




大手門前  桜門(大手門)


駅から10分ほど歩き、
城の表玄関である、
大手門と桜門橋前に到着しました。



三の丸から見た天守閣



これを渡り門をくぐると、
そこは、昔、御殿や屋敷があって、
本城(御居城)と呼ばれていた三の丸。
現在は巨大な芝生広場になっています。
ここから仰ぎみる天守閣がまた見事。



上山里下段  上山里下段の説明書き




天守閣入場口の手前右側、
この不自然な石垣があります。
これは上山里下段と名付けられ、
現存する姫路城の石垣の中で、
その特徴からみて十六世紀後半の、
天正期に築かれた石垣なんだそうで、
つまり天正八年(1580)頃に、
羽柴秀吉によって築かれた石垣とか。
黒田官兵衛のゆかりの石垣であると、
ご丁寧に案内されておりましたデス。




天守の庭



またその手前にこの「天守の庭」があります。
慶長六年(1601)〜慶長十四年(1609)の築城以来、
総重量六千tともされる、
天守の重量を支えた地盤は、
徐々に沈下して礎石は高低差を生じ、
東南方向に44cm傾斜していたそうです。
そこで昭和の天守解体修理の際に、
天守基礎にはコンクリートの地盤を埋めて、
そこに柱を立てたので、、
従来の礎石は取り除かれました。
その礎石が平面展示したのがこちらなんです。




菱の門  三国堀のV字後




入城料を払い中に入ると、
三の丸と二の丸を隔てる「菱の門」。
これをくぐると、
昔は防火用水の役割をした、
四角い三国堀があります。
この堀の石垣をよく見ると、
V字状になっている部分に気付きます。
実はこれ秀吉の築城の頃には、
今のような捨て堀ではなく、
奥の方に続く長い堀で、
これを池田輝政が奥の方の堀を埋めてて、
今のこの四角い三国堀となったそうです。
これは石垣の隙間を埋め立てた跡なのです。



いノ門  ろノ門




姫路城「いろは付き門」の、
一番目の「いノ門」と、
二番目の「ろノ門」です。
これらの門はわざと小さくて、
貧弱な門に見せており、
敵を油断されて直進させ、
上の狭間から矢と銃弾の雨を浴びせます。



二の丸から見た天守閣



さてとりま「ろノ門」から左へ進み、
西の丸へ。ここから見る天守も素晴らしい。




百間廊下入口  百間廊下
鷺山に建てられている為、階段がある  長局





西の丸は本多忠政が、
伊勢桑名から転封された時に、
整備・拡張された曲輪で、
北側にある化粧櫓と、
櫓群を結ぶ渡櫓(長局)が残っています。
この渡櫓の城外側が、
幅一間の廊下が長さ約百二十一間、
約240mに渡って連なり、
「百間廊下」と呼ばれています。
ここにも城外に向けて、
石落としや狭間、
鉄砲の煙出しの窓など、
戦闘の施設を有していますが、
平和の世が長く続くと、
城内側は侍女達の部屋となったようです。




化粧櫓内  下から見た化粧櫓





この化粧櫓は、あの千姫が、
本多忠刻に輿入れする際の、
化粧料十万石で、
元和四年(1618)に建てられたもので、
外観は二重二階、
内部は畳が敷かれた座敷部屋が、
三室に区分された床の間がある奥御殿。
実際、千姫は西の丸内にあった、
中書丸と三の丸脇の、
武蔵野御殿に住んでいたそうですが、
いずれも現存しておりません。




はノ門  にノ門




さて天守へ向かう方向に戻り、
この「はノ門」「にノ門」へ。
こちらはかなり攻略が難しそう。





ついに天守へ  筋交




ついに天守群に入りました。
天守内の一階隅にある「筋交」。
一、二階に通して入れられた構造材で、
地震などの横の力で、
建物が押しつぶされるのを防ぐ役割とか。



天守から見た西の丸櫓群・長局(百間廊下)




天守二階から見た先ほどの、
西の丸櫓群・長局(百間廊下)と化粧櫓。



六葉釘隠し  武具掛けのある廊下




六枚の葉がデザインされた、
「六葉釘隠し」はいいんですが、
上から飛び出している数本の釘はなんだろう?
多くの「武具掛け」が大天守のいたるところにあり、
天守が武器倉庫の役割をしていたことが分かります。




破風の間  武者隠し




天守三階の「破風の間」は、
外から見ると入母屋風の屋根と窓の、
屋根裏・内側の部分。
格子窓の一つは、
開閉できる構造になっているとか。
天守四階の隅には、
伏兵を配置する空間の、
「武者隠し」があり、
内部には当然狭間があります。




四階




天守四階はかなり広い空間があり、
鉄砲の煙を排出する「高窓(煙出し)」や、
東西に大千鳥がある為、窓の位置が高く、
その窓を利用する為の「石打多棚」があります。




西大柱  東大柱  



さて大天守五階は、
東西二本の「西大柱」「東大柱」の最頂部。
「西大柱」については、
後ほどまた詳しく触れますが、
「東大柱」は昭和の大修理時には、
中心線から東南の方向に、
37cm傾いていたそうで、
多くの支柱を入れて補強したとか。



最上階(六階)の長壁(刑部)神社



さてついに最上階の六階に到着。
ここには現在、元々は「との二門」と、
「との三門」の高台にあった、
姫路長壁大神と播磨富姫神を祀る、
長壁(刑部)神社がありますが、
明治十二年(1879)に一旦総社に移るも、
後にここ天守楼に勧請され、
明治十五年(1882)の城内備前屋敷の火災や、
昭和二十年(1945)の大空襲の際にも、
天守最上階に落ちた、
焼夷弾が不発弾となる霊験もあり、
今も人々の信仰を集めています。




幻の窓





さてまた最上階六階には、
実は壁面すべてに窓を開ける設計だったようで、
築城途中で変更されて、
四隅に塞いだ「幻の窓」があります。





北の眺望  西の眺望
南の眺望  東の眺望 




天守最上階、
東西南北の窓から、
それぞれの眺望です。
さすがは天を突くような、
威風堂々とした天下の名城・姫路城。
この国宝・世界遺産が、
戦火で焼失しなかった奇跡に感謝します。






厠  流し





さて大天守から外に出ようと、
地階に降りました。
ここには二か所の「厠」があり、
それぞれ三つの便座があって、
下には備前焼の大甕が埋められていたものの、
実際に使用した形跡はなかったとか。
籠城用のものだったのでしょう。
また具体的な用途が不明な、
この中央部に水を集めて、
北側の内庭に排出する「流し」もあります。




天守閣から外に出る  備前丸から仰ぎ見た大天守・西小天守



さて大天守閣から外に出て、
本丸(備前丸)のあった広場から、
改めて大天守・西小天守を仰ぎ見ます。
ここからの角度は迫力が満点。



石棺1  石棺2




さてこの備前門の周囲の石垣には、
この長い直方体の石がいくつかあります。
これ、実は古墳の石棺で、
築城に際して石を調達する為、
姫路周辺の古墳がいくつも破壊されたのです。
・・・ったく、ひでぇーな。
Σ( ̄Д ̄ )



石棺の説明書き





栃木の壬生城にも、吾妻古墳を破壊して、
玄門石と天井石を庭石にした例もありますが、
それどころぢゃない豪快なバチ当たりっぷり。




→ 壬生町城址公園 〜吾妻古墳玄門石・天井石〜




  
お菊井  お菊井戸の奥を覗く




二の丸のこの井戸には、
お菊井戸と名付けられ、
播州皿屋敷」の伝説と、
無理矢理に紐づけたようですけれど、
そもそも江戸では「バン」と同じ音の、
「番町皿屋敷」があるように、
あれは全くのフィクションです。




お菊井戸の説明書き





ひょっとすると、
姫路にそのモデルとなった、
事件があったのかもしれないけど、
いっくらなんだって、
城内本丸下のこの井戸に、
死体を投げ込んだら大変なこと。




修復中の一渡櫓  修復中の一渡櫓内部




修復中の「りの一渡櫓」ですが、
工事の様子を覗き見れるようになっています。



歴代の鯱




ここになんでか歴代の鯱が展示されていました。




扇の勾配




「ぬの門」をくぐると正面にこの「扇の勾配」。
まるで開いた扇の曲線のように反り返る石垣です。





旧西大柱の収納小屋



さて入城口を出ると、
来た時には気付かなかった、
旧西大柱の展示の案内がありました。



旧西大柱  旧西大柱の説明書き



昭和大修理の際に、
芯から腐っていて、
再利用が不能であると判断された為、
取り替えられた旧西大柱が展示されていました。
先ほど大天守五階で見た西大柱は、
その時に取り換えられたものだったのです。
新柱の巨木探しにはかなりの苦労があったようです。
詳しくはこちらのリンクをご覧下さい。




→  朝日新聞デジタル:継いだ「運命の木」 姫路城・西大柱 - 兵庫 - 地域





さらば姫路城




さらば、姫路城。
今日は本当にここに来て良かった。
この国の宝、世界の遺産が、
いつまでもいつまでも、
次の世代、また次の世代へと、
継承されることを心から願います。

えきそば まねき 大手前店

営業時間 10:00〜18:00
定休日 なし 
670-0902 姫路市白銀町67 大手前パーキング1F
公式サイト http://www.maneki-co.com/ekisoba.html



姫路城を見学し終えて、
さてちょうどお昼ドキですが、
今日もまたコンビニのおにぎりでも齧りつつ、
次の目的地に移動するつもりでおりました。
元々今日は姫路城以外はノープランだったんですが、
実は朝の新快速が「播州赤穂」行きだったもので、
忠臣蔵」「赤穂事件」マニアとしては、
是非「聖地」を巡礼したい。




まねき えきそば 大手前店




姫路駅に向かって歩いていると、
ん?、姫路名物の「えきそば」とな。
こりゃちょっと興味深々。
本店は駅ホームの立ち食いだそうだけど、
この「大手前店」には椅子があります。
これからまたたんまりと歩く予定。
思わず吸い込まれてしまった次第。。。




お品書き




お品書きはご覧の通り。
かなり暑かったもので、
冷たい蕎麦が良かったんだけど、
温かいメニューしかありません。




えきそば 天ぷら(360円)




えきそば 天ぷら(360円)。




まんま中華麺



えっ・・・。
蕎麦じゃなく中華麺やないのコレ。
これにつゆと皮だけの天ぷら。。。
かなりの歴史のある名物だそうだけど、
いやいや、ホント、
世の中にはいろんな麺類があるなぁ〜。




→ 「日本一美味しい立ち食いそば」と評判のJR姫路駅の「えきそば」を食べてきました | Buzzap!

台雲山 花岳寺 〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その三・大石内蔵助良雄像 その二〜

宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
678-0239 赤穂市加里屋1992
公式サイト http://kagakuji.jimdo.com/



→ 高野山 金剛峯寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その二〜
→ 萬松山 泉岳寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その一・大石内蔵助良雄像 その一〜
→ 大石良雄他十六人忠烈之跡
→ 浅野内匠頭終焉之地
→ 皇居東御苑(松之廊下跡)
→ 赤穂浪士討ち入りの日
→ 「赤穂」関連の記事
→ 「忠臣蔵」関連の記事





駅構内の展示  駅構内の「忠臣蔵」の書    




さてさてそんな訳で、
播州赤穂駅にやって参りました。
なぜわざわざ「播州」を冠しているかといえば、
他に先に「赤穂(あかほ)駅」があったからだそうで、
意外にもJRの駅で、
「〜州」が付く駅はここだけとか。
駅を降りればご覧の通り、
忠臣蔵」と「赤穂義士」に溢れています。
つーか、それしかあーりません。



観光情報センター  観光情報センター内




駅にある観光情報センターも、
忠臣蔵」と「塩」ばかーり。
なんの下調べもして来なかったので、
こちらで地図をもらい、
いろいろと目的地を定めました。




駅二階から見た赤穂の街並み



駅二階から見た赤穂の街並み。
なぜか「忠臣蔵」劇中の、
「この田舎大名がぁ〜。」という
吉良の台詞が脳内にリフレイン。




JR播州赤穂駅  駅前ロータリーの大石内蔵助像




JR播州赤穂駅の駅前広場。
ここに討ち入りの装束の、
大石内蔵助良雄像がありました。



息継ぎ井戸  井戸の内部




赤穂城方面を目指して進むと、
ぽっかりと小さな広場があり、
この井戸がありました。
中を覗き込むと、
復元された模擬のもののようで、
正直言ってちゃちぃです。
浅野内匠頭による刃傷事件の、
第一報を知らせる為、
元禄十四年(1701)年三月十四日の夕刻に
赤穂藩士・早水藤左衛門、萱野三平の二人が、
早籠で江戸を出発。
百五十五里(約620km)の道のりを
四昼夜半で到着した両名は、
大石内蔵助邸へ向かう前に、
この井戸の水を飲んで、
一息ついたといわれ、
「息継ぎ井戸」と呼ばれています。
つーかさぁ・・・、
折角死ぬ思いで急いで来たのに、
こんな目と鼻の先でわざわざ休むかっ?!




いきつぎ広場のからくり時計




この「いきつぎ広場」に併せてあるのが、
この高さ4mの時計台。
時計台の三方には、赤穂市立歴史博物館所蔵の、
忠臣蔵の浮世絵が複写されています。




松の廊下のからくり  からくり終了




これが午前九時から午後八時までの毎正時、
太鼓の音とともに時計台の扉が開き、
からくり人形による忠臣蔵の一幕が始まります。
松の廊下事件から早籠、討入達成まで
約三分間の忠臣蔵の小劇場。




山門(元赤穂城・塩屋惣門)




さて浅野家と義士の菩提寺
台雲山・花岳寺に到着しました。
赤穂藩は浅野家断絶の後、
永井家、森家が藩主となりますが、
それぞれここ花岳寺を菩提寺と定めました。
この山門は元は赤穂城の、
塩屋惣門を移築したものです。




本堂と二代目大石名残の松  鳴らずの鐘



山門をくぐると正面本堂の手前には、
この巨大な「二代目大石名残の松」。
大石内蔵助が赤穂を去る時に、
何度も見返していたと言われる松なんだけど、
この手の誰かにゆかりの樹木に、
二代目とか意味があるのか疑問ですが、
まぁ、それはそれで観光資源っていうことで。。。
またその松の東にあるのが「鳴らずの鐘」。
赤穂浅野家二代の藩主の長友が、
その父の長直の菩提の為に、
奉納した鐘なんですが、
元禄十六年(1703)二月四日、
赤穂浪士四十六士が、
江戸で切腹したという報が赤穂に届き、
悲しみに包まれた赤穂町民が、
花岳寺に集まり鐘を撞いて撞きまくり、
以来、鐘が音韻を失ってしまったそうで、
五十年後に改鋳をしたものが今の鐘とか。。




本堂  天井の虎の墨絵




二重屋根・扇垂木・伽藍造りの立派な本堂。
天井の大額には赤穂最大の画人といわれる、
法橋義信の筆「竹に虎」が大迫力。




千手堂内の初代大石名残の松  千手堂の観音像




本堂から振り返ると、
休憩所を兼ねたような「千手堂」があり、
ここに樹齢310年で枯死した、
「初代大石名残の松」の幹が置かれています。
でもここ千手堂なのに、
なんで本尊が聖観音なんだろう?





浅野長矩及び赤穂義士墓所  浅野長矩と大石親子の墓石



さて参拝料を奉納し、
宝物殿や墓所のある境内奥に参ります。
まずは浅野長矩及び赤穂義士墓所
赤穂浪士三十七回忌にの元文四年(1739)に、
有志によりこの義士墓が建立されました。
中央に浅野内匠頭長矩、
左右に大石内蔵助良雄・主税良金の親子。
ぐるりと他の義士の墓石が並びます。
それぞれ遺骸は江戸の泉岳寺に埋葬されたので、
こちらは遺髪の埋葬のみだそうです。



四十七士墓石  寺坂吉右衛門墓石




ずらりと並ぶ四十七士の墓石。
切腹をした義士には戒名に「刃」があると、
スピーカで説明が流れており、
墓所南東角の墓石に「刃」がなく、
これは切腹をせずに天寿を全うした、
寺坂吉右衛門の墓石である。
と、解説されていましたけど、
ちょっと待ったー!!!!!
まずその墓石は他の墓石と材質も全く同じです。
泉岳寺の寺坂の墓石は、
遺骸のない供養墓ですが、
慶応年間に入ってから建てられたもので、
材質も明らかに異なり、
戒名は「遂道退身信士」となっています。
また延享四年(1747)に、
83歳で亡くなり麻布の曹渓寺に葬られた、
墓の戒名は「節岩了貞信士」。
こちらの戒名はよく読み取れませんが、
明らかにそのどちらとも異なります。
また元文四年(1739)当時には、
寺坂はまだ74歳で存命しています。
果たしてコレ本当に寺坂の墓なんだろうか。




浅野家霊廟  森家墓所




浅野長矩及び赤穂義士墓所の裏の、
義士宝物館・義士木像堂は撮影禁止。
また墓所と本堂の間に、
「浅野家霊廟」があります。
また北西には森家代々の墓所があります。




大石家先祖墓所  義士家族墓



その森家の右隣に大石家先祖墓所がありますが、
大石の子孫は安芸国広島藩に仕えるですが、
ここまで墓参りが出来たのだろうか。
この隣の「義士家族墓」も、
義士の遺族は各地にバラバラになったので、
一体どう管理していたのだろう。




浅野家三代墓所




さて境内北東、浅野家三代の墓所です。




浅野長重公之墓




一番奥は笠間藩主「浅野長重公之墓」。
領地の真壁・伝正寺に葬られますが、
子の長直の代に赤穂へ国替えとなり、
ここにも墓が建てられました。



浅野長直公之墓



そしてその手前左は、
その初代赤穂藩主の、
「浅野長直公之墓」。



浅野長友公之墓



さらにその手前に長直の長男で、
内匠頭長矩、大学長広の父、
「浅野長友公之墓」。




浅野家は長矩の代で断絶した後、
弟、大学が旗本となり再興しますが、
禄高はたったの五百石*1で、
所領は安房国だったそうですから、
こちらの墓を直接管理することは、
出来なかったはずです。
あの赤穂事件があってこそ、
永井家、森家が藩主となっても、
そのまま手厚く供養されて来たのでしょう。

*1:浅野宗家からも300石を支給され続けた。

赤穂城跡 大石神社 〜大石内蔵助良雄像 その三・山鹿素行像〜

国指定史跡 赤穂城跡・大石良雄宅跡
国指定名勝 旧赤穂城庭園
祭神 大石内蔵助良雄以下四十七士命、萱野三平
678-0235 赤穂市上仮屋1292
公式サイト http://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/shisetsu/kanko/oishijinja.html







台雲山 花岳寺 〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その三・大石内蔵助良雄像 その二〜
→ 高野山 金剛峯寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その二〜
→ 萬松山 泉岳寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その一・大石内蔵助良雄像 その一〜
→ 大石良雄他十六人忠烈之跡
→ 浅野内匠頭終焉之地
→ 皇居東御苑(松之廊下跡)
→ 赤穂浪士討ち入りの日
→ 「赤穂」関連の記事
→ 「忠臣蔵」関連の記事





三の丸大手隅櫨  大手門




さて花岳寺を後にしまして、
赤穂城跡を目指します。
三の丸大手隅櫨を見て大手門を渡ると、
そこは上士の屋敷等があった三の丸です。




近藤源八邸跡長屋門



この「近藤源八宅跡長屋門」は、
赤穂浅野家軍学指南、
近藤家の屋敷のあった所で、
この長屋門は江戸時代後期になって、
改築されたものです。
近藤家二代目の通称より、
「源八長屋」と呼ばれており、
赤穂市指定文化財に指定されています。



内側から見た長屋門  長屋門内の展示



近藤源八宅跡はすでになく、
この「源八長屋」しかありませんが、
無料で内部を公開しております。




大石邸長屋門  長屋門正面



さて「源八長屋」の向かいにあるのが、
この「大石邸長屋門」。
家老・大石家三代の屋敷の長屋門で、
江戸から早駕籠で駆けつけた、
早水藤左衛門、萱野三平の二名が、
実際に門を叩いたのがこの門です。
邸宅は享保一四年(1729)に、
火災に遭い大半が灰燼に帰しますが、
この長屋門だけが焼失をまぬがれました。
この門の内側の邸宅跡が、
大石神社になっております。




大石神社表参道  神門




ぐるりと南西に回り、
大石神社の表参道。
その参道の左右には、
四十七士の石像が並びます。
さて神門をくぐり大石神社の境内へ。



拝殿



赤穂事件以降、
赤穂浪士を称賛する人々により、
この大石邸内には小さな祠が設けられ
大石内蔵助良雄以下四十七士命、
萱野三平、浅野家三代が祀られて、
密かに信仰を集めていたそうです。
明治三十三年(1900)になり、
改めて「大石神社」を創建することが、
政府から許可されて、
明治四十三年(1910)起工、
大正元年(1912)に社殿が竣工しました。




義士宝物殿  記念撮影用の早駕籠




三館共通拝観券を購入し、
まずは義士宝物殿へ。
入口手前にこの早水、萱野が利用した、
早駕籠のレプリカがあって、
記念撮影用にどうぞとのこと。
中にも討ち入り装束がありました。




義士宝物殿内  堀部安兵衛所用鎖頭巾・鎖帷子
大石内蔵助愛刀の備前長船清光・康光の大小刀浅野内匠頭拝領の小刀




義士宝物殿内が珍しく、
写真撮影禁止との注意がなく、
堀部安兵衛所用鎖頭巾・鎖帷子や、
大石内蔵助愛刀である、
備前長船清光・康光の大小刀、
浅野内匠頭拝領の小刀と、
ホンマかいなと疑うほどの、
お宝がすんごくてテンションアップ。




大石内蔵助像



この大石内蔵助良雄像も、
泉岳寺のそれに似た、
討ち入り装束ではない、
平時の"昼行燈"スタイル。



義士宝物殿別館  義士宝物殿別館内




義士宝物殿別館もお宝の山でした。
しかし大石は書画にも通じる、
文化人だったんだねぇ。




義士木像奉安殿  
大石内蔵助・浅野内匠頭木像  四十七士木像



三館の最後は、
この義士木像奉安殿で、
花岳寺の木像よりも、
新しい現代的な木像に拝し、
またこの裏側に大石邸の庭園を見学します。



大石邸庭園  大楠




庭園のこの大楠は樹齢約350年。
大石内蔵助が今年生誕357年、
没後315年ですから、
充分実際に大石の姿を、
見たことがあるはずです。



内側から見た長屋門



そして庭園に接する、
内側から見た大石邸長屋門



長屋門内の展示  長屋門内の展示




長屋門内の座敷にマネキンが置かれて、
大石の家族の日常や、
早籠到着の様子が再現されております。
ですが、誤解のないように。。。
邸宅が焼失した為に、
こちらにそのような展示をしていますが、
家老の大石内蔵助やその家族が、
長屋門の座敷で生活するようなことは、
絶対にあり得ません。



山鹿素行像



さて大石神社を出て、
三の丸から二の丸に入りました。
ここには儒学者軍学者の、
山鹿流兵法の祖、
山鹿素行銅像があります。
朱子学を批判したことから、
ここ赤穂藩お預けの身となり、
赤穂藩士の教育を行った山鹿素行
大石内蔵助良雄も門弟の一人であり、
これが赤穂事件での、
大石の思考に影響を与えました。
忠臣蔵」の討ち入りで、
大石が合図に叩いたという、
「山鹿流陣太鼓」が有名で、
先ほどの大石神社にも、
その巨大なモニュメントがありましたが、
実は山鹿流の陣太鼓というものは、
実際には存在しなかったそうで、
物語の中の創作なんだとか。



本丸厩口門
本丸櫓門  本丸櫓門内の展示




厩口門をくぐりいよいよ本丸の中へ。
これから先の建物も、
ほとんどが復元されたものです。
昨日今日はこの本丸櫓門の内部が、
特別に公開されていました。
内部には赤穂城に関する資料が、
所狭しと展示されています。




本丸櫓門から御殿遺構を望む




本丸櫓門の上から御殿遺構を望みます。
御殿は復元されておらず、
コンクリートの台が築かれていて、
この位置が昔、何の間であったのか、
分かるようになっています。




天守台  天守台から城下町を望む




五層天守の造営の計画もあったそうですが、
幕府への遠慮か、はたまた財政難の為か、
結局は一度も造営されずに、
この立派な天守台のみが現存しています。
この天守台から城下町を望む風景は格別でした。




さらば播州赤穂駅




30℃を超える暑さの中、
一日中歩いてヘトヘトになりました。
さらば赤穂、さらば播州赤穂駅
やっぱり赤穂浪士マニアとしては、
実際に来て見て本当に良かったです。