104-0045 中央区築地6-20-11
開館日 火・木・金・土曜日(12/29〜1/3を除く)
開館時間 9:30〜16:30
入場無料
施設運営 (財)東京都道路整備保全公社
公式サイト http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kachidoki/
株主総会後の人事動向を踏まえた、
セールス活動の一環で、
勝どきにある、ある会社に訪問しました。
この勝鬨橋とその資料館。
以前からずっと気になっていたものの、
近くに駐車場がないもので、
車の窓から眺めるだけでした。
今日は気合を入れ徒歩で、
こちらの資料館に行って来ました。
右上の写真の通り、
この資料館前には、
「かちどきのわたし」と刻まれた碑が建ちます。
「勝鬨」(かちどき)ってなんだか分かりますか??。
歴史小説が好きな人ならば、
当然ご存知のことと思いますが、
辞書によれば、
「戦さに勝ったときあげるときの声」っやつですから、
刀や槍を天に突き上げ、
「えい、えい、おーっ。」ってやるあれです。
私は以前、この橋が開橋していた、
橋桁を高く突き上げる跳開の姿から、
そう名付けられたものであるという、
勝手な想像をしていましたが、
事実はまったく異なります。
明治三十八年(1905)、
日露戦争旅順陥落の年に、
戦勝を記念して、
新たに設置された渡舟場が、
「勝鬨の渡し」と名付けらました。
その後、何度もこの地に架橋が計画されますが、
なかなか実現されずにいたところ、
東京万博(戦況の悪化の為中止)のメインゲートとして、
当時の日本の最先端技術の粋を集め、
この美しい可動橋は、
昭和十五年(1940)に建造されました。
渡舟場の名前をとって、
「勝鬨橋」となったのです。
さて時代は移り変り、
道路の通行量は増える一方なのに、
船舶の通行量は減るばかり・・・。
この橋の開閉には一回20分も費やしてしまうので、
晴海通りの渋滞を避けるため、
開閉回数はどんどん減っていきます。
開設から戦前は一日に5回であったものの、
戦後の昭和二十二年(1947)からは一日に3回に減り、
昭和三十六年(1961)からはついに一日1回となって、
昭和三十九年(1964)には年間100回を切りました。
昭和四十二年(1967)に最後の通航の為の跳開をし、
その後は年に一度ほどの試験的な開閉がありましたが、
昭和四十五年(1970)11月29日の跳開を最後に、
可動橋としての勝鬨橋は眠りにつき、
昭和五十五年(1980)には完全に電力供給も停止されました。
平成十七年(2005)年4月に、
この資料館が開館するに際し、
発電や電気設備もこちらに移設されたようなので、
もうこの可動橋は、
二度と開くことはなく、
その動きはほぼ亡くなったのです。
資料館入口には、
可動橋であった在りし日の雄姿。
・・・美しいです。
写真撮影の許可を戴き、
小さな館内を撮影させて頂きました。
やはり模型にすると、
ちょっとなんだか、ダサくみえますね。
発電設備も、電気設備もここにあるということは、
もうあの橋は二度と動かないということなんですね。
なんだかどうして哀しいです。
かちどき橋の資料館を出て、
実際の勝鬨橋をじっくり観てみましょう。
運転室を覗けば、
ほとんどもう、がらんどうですが、
今でも歩行者用の信号が四つ現存しています。
ここが真ん中。
ここから、ぱかっと割れて、
左右に跳開しました。
今でも、ここはガタガタ揺れています。
真ん中のつなぎ目から下を見ると、
ゆらゆらと川面が見えるんです。
可動橋としての死から37年を経ても、
まだまだ現役の67歳の勝鬨橋。
毎日毎日この上下線の渋滞の重みに耐えています。
あ、そうそう、
この橋桁の中を見学できるツアーがあるそうです。
私のようなサラリーマンには、
完全予約制の木曜日限定には、
ちょっと参加出来そうにありませんが、
興味のある方は是非どうぞ。
→ 橋桁内見学ツアー