実籾 八幡稲荷神社 

祭神 応神天皇?・宇迦之御魂神?
275-0001 習志野市習志野2-6




長男は今日の夕方、
二泊三日の林間学校から戻ります。
残り三名は、午後かみさんの実家に行く予定です。




→ パナソニック VIERA TH-L20R1 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地





二郎の後、このテレビ購入のエコポイントで選択した、
図書カード一万円分が届きましたので、
最寄の商店街の書店に行くも、
お目当ての本がまったくありません。
かみさんの実家へは現地集合に変更し、
私は長男のチャリでそのまま、
習志野のショッピングセンターの書店に行って、
実籾を抜けて戻りました。




八幡稲荷神社



「イナリなの?、ハチマンなの?、ドッチなの?」と、
車で通りかかる度に気になっていたこちらの「八幡稲荷神社」。
駐車場所がなくて今まで未参拝のままでした。






以前読んだ「習志野市史」には、
『元々は個人宅で勧請されていたお稲荷さんだったものが、
ここにあったの陸軍の軍人達の間で、
「弾避けのご利益」があるという噂が広まって、
多くに参拝されるようになり、
その後今のように神社として祀られた。』

と、いうようなことが書いてありましたが、
ここの案内板には、まったく違う由緒が書かれていました。
恒例の"ちょっと簡単な表現"に加筆修正して写します。




二之鳥居からみた社殿




  八 幡 稲 荷 神 社  ご 由 緒
当神社は創立年月は不詳ですが、古文書によると、
往古早昧の時代、千葉氏の残党実籾字本郷に来り、
又古河御所の余党実籾字八幡前(三山大須奈地より印旛沼に通ずる水田付近)
に竄入し八幡社を建立、再起戦勝を祈願せり

・・・とあります。つまり第74代鳥羽天皇の世、
平氏を祖先とする、桓武天皇から十世にあたる千葉介常兼の時代、
嘉承二年(1107)年千葉氏一族に内紛抗争起って、
猪鼻城(今の千葉城のある所)に住むことを潔しとしない将兵が野に下り、
実籾本郷に住み農耕を営んで大宮・大原神社を創立しました。
その後、当八幡前には下総古河に関係ある千葉氏一族が、
猪鼻城や千葉の町が灰燼に帰した宝徳二年(1450)前後に住みつき、
この八幡宮を創立して再起戦勝を祈願したと伝わっています。
この辺り一帯は昔、小金牧と呼ばれ徳川八代将軍吉宗の頃、
馬の放牧地として召し上げられ、明治四年(1871)には、
陸軍練兵場に定められます。同六年(1873)四月、
明治天皇行幸を仰ぎ陸軍大演習が展開された時、
帝は総指揮官、篠原国幹閣下の名を讃えて習志野原(習篠原)と命名しました。
明治二十三年(1890)からは遊猟場となってうさぎ・きじ等を飼育して、
冬に貴人達が村人と一緒に狩を楽しみましたが、
同三十七年(1904)の日露戦争から、この境内地も含め俘虜収容所として、
陸軍省に買収されます。
その後、第十五師団臨時駐屯して、この神社の丘を平坦にしようと崩し始めると、
怪我人が続出して工事はなかなかはかどりません。
しかし軍の命令は厳しくてなおも工事を続行するも、
ついにはその工事長が高熱を発して倒れます。
これは只事ではないと、工事の中止を歎願し、さすがの陸軍省神罰を恐れて、
現在の塚だけを残し、玉垣を囲み境内地としてく軍の管轄から除外しました。
師団内の歩兵第五十八連隊第一中隊長は、信仰心が厚くよく兵と参拝して、
射撃大会は三年連続師団一位になりました。
後にこの連隊が、新潟の高田への移駐が決定し、
この八幡宮を連隊発祥の地の守護神として高田連隊に遷宮します。
すると連隊内に悪い疫病が流行。堀内連隊長(後の大将)*1は大いに心を痛めます。
ある夜、お稲荷さんが夢枕に立ち「旧の御座に還りたき」とのお告げがあって、
急ぎ、北陸より「着剣武装護衛」でここに戻しました。
すると猛威を極めた悪い疫病もたちまち治まって、
一同は改めてこの御神霊の尊さに戦慄したそうです。
この「第五十八連隊」から、今も「五八稲荷」とも呼ばれ、
俗に「出世稲荷」とも云われ「当たる、栄る」神として近郊の信仰を集めています。
明治四十三年(1910)4月に土地・立木を本社・大原神社に譲与合祀し、
現在はその摂社という関係になっています。
大正七年(1918)に建築された本拝殿は、昭和六年(1931)12月1日に不慮の災い遭って、
一切を烏有に帰しますが、軍の絶大な支援を受けて、氏子と崇拝者が一丸となって、
翌七年(1932)今の 神殿が竣工しました。



昭和四十七年二月社務所奉献されたその竣工の日
                   神主 桜井近江 識


「弾除け」ではなく「弾当て」ですが、
おそらく起源はこの通りなのでしょう。
ただ一時は、荒廃していて、
ほぼ個人宅の管理と思われる時期があり、
習志野市史」にあった通り、
軍人の信仰より再興したのでしょう。
ただ、こちらも私の想像ではこれ、
元々は小さな円墳ではないでしょうか。




拝殿  本殿  




鉄筋コンクリートで造られた、
社殿・本殿は、ペンキで朱に塗られています。
賽銭箱の下のカエルは一体なんの意味があるのだろう。(汗)




賽銭箱の下のカエル





境内末社の石祠




本殿裏手には、境内末社だったと思われる、
石祠がいくつも祀られています。
これは個人宅のものとは到底思えません。




二宮金次郎




しかしなぜか、鳥居の左には、
通常は小学校等にある二宮金次郎の石像に、
お地蔵様のような赤ちゃんの帽子が被されていました。




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*1:由緒板記載のママ。堀内文次郎の最終階級は中将。