宗派 真言宗豊山派
本尊 延命観世音菩薩
ご詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺
328-0026 真壁郡大和村本木1
公式サイト http://www.amabiki.or.jp/
さてこれで栃木の札所はすべて終わりました。
益子の町より、41号つくば益子線を南下して、
茨城県に入り、岩瀬町で国道51号を交差して、
真壁郡大和村へ向います。
またまたお約束の山登り。
カーブでは新車登録から11歳の、
我がラウム君が悲鳴をあげております。
ようやく到着したお寺の駐車場。
入口にはあまりお寺なしからぬ「黒門」があります。
これ「薬医門」といって、
元々は山の麓の集落の中央にあったものを移築したそうで、
関ヶ原の戦いの以前には真壁城の城門だったものだとか・・・。
またまた足の痛む二人を泣かせる大石段。
この「磴道」は文政四年(1821)から1年2ヶ月かかって造られた145段。
一段一段登るごとに「南無観世音菩薩」と称号を唱えて登れば、厄が落ちるそうですが、
我々は「痛い、痛い」と悲鳴とともにで登ったので、
おそらく厄は落ちていません・・・。(泣)
この磴道の途中左手には地蔵堂がありました。
建長六年(1254)、鎌倉幕府六代将軍・宗尊親王の願によって建立した堂宇で、
享保年間(1716〜1736)に、左甚五郎の兄弟弟子である、
仏師・無関堂円鉄*1が彫刻したというこの地蔵菩薩を祀られています。
俗に「子安地蔵」といわれており、お子さんの健康を願うお供え物に溢れていました。
磴道を登りきると、右手には鐘楼があります。
これもそもそもは地蔵堂と同時に、
宗尊親王の願によって建立しますが、
その後天和二年(1682)にここの第十四世の堯長さんが再建。
またまた大破してしまって、
文政十三年(1830)に第二十四世の元盛さんが再々建立したものだとか。
屋根は昭和五十年(1975)に瓦葺きに葺き替えられたものの、
その他は文政年間の建設当時のままだそうです。
なぜか木造・石造の二対四躯の仁王尊が祀られている仁王門。
これもそもそもは建長六年(1254)の宗尊親王の建立ですが、
現在のこの建物は、鐘楼の二度目の再建と同じ、
天和二年(1682)の第十四世の堯長さんによるものです。
周囲の彫刻は、先ほどの地蔵菩薩を彫刻した、
無関堂円鉄が宝永元年(1704)に施したもの。
ただし木造の仁王尊は、鎌倉時代の仏師・康慶のものと伝わっています。
磴道を終えて、仁王門をくぐっても、
また石段は続きます。
途中、このスダジイの巨木に目を奪われて一休み。
ようやく本堂(観音堂)の前に辿り着きました。
最初の本堂は、文明六年(1474)に真壁城・城主だった真壁久幹と弟・高幹によるものだったそうですが、
現存のこの本堂は、天和二年(1682)に第十七世、文昭さんの建立だとか。
この本堂の内外の彫刻もやはり無関堂円鉄によるものです。
平成十年(1998)までは茅葺だったようですが瓦葺きに形を変えました。
宮大工にこの技術者がほとんどいなくなってしまったようで、
どんどん茅葺屋根が減ってしまうのは寂しい限りです。
形を変えたといえば、この多宝塔。
そもそもは鐘楼や仁王門を再建した、
十四世堯長さんが天和三年(1683)に、
三重塔を再建しようとしますが、第二重目までで病に倒れ、
継ぐ十五世堯宗さんが翌・貞享元年(1684)に完成させます。
その後なぜか、嘉永六年(1853)に、三重塔を改めて、
現存の多宝塔と改修したそうですが、
ちょっと調べたもののその理由は不明のままです。
ただし、この二つの建造物。
並んでみればとってもよく"絵"になります。
本堂の左奥には、
なぜかこの東照山王権現社殿・東照宮があり、
徳川家康公が祀られています。
どうやら第十世宥円さんの時代、
慶長十八年(1613)に駿府城に呼ばれ、
大御所・徳川家康公に謁見し、
台命によって法論となるも、勝ち、
褒賞として寺領、朱印地百五十石を賜った恩義から、
この祠堂を建立したとか。
現存の祠堂は、享保十二年(1727)第十八世吽教さんによるもので、
やはり仏師円鉄さんによる彫刻でその時に徳川家光も合祠しました。
御供所の隣には鉄筋の六角堂。
本尊・薬師如来と、不動明王が祀られていました。
池には美しい白い睡蓮が咲いています。
境内には孔雀が放し飼いになっているそうですが、
結局ご縁が無く見つけることが出来ませんでした。
納経をお願いに御供所へと向います。
ここでご本尊・延命観世音菩薩の写真に拝しました。
御供所から仁王門越しに下界を眺めると、
仁王門の屋根越しに関東平野がかなり遠くまで望めます。
知らぬ間にかなり高く上がっていたようです。
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*1:円哲ともいう。