青暘山 慧日院 善照寺 〜青山久左エ門子孫累代墓〜

宗派 浄土宗
本尊 阿彌陀如来
272-0131 市川市湊18-20
公式サイト  http://www.zenshoji.or.jp




→ 【吉橋大師第七十七番】三山新田 弁天社




春にこの吉橋大師第七十七番、
山新田の弁財天について調べてみると、
現在の船橋市三山の"三山新田"開墾に対し、
行徳の方々が深く関っていることを知りました。
三山の地元の方と思われていた苗字のいくつかは、
この時、行徳から移住した方の子孫のようです。
そもそもこの弁天社にあったという、
弘法大師作弁天像が最初に祀られていた、
青山久左エ門が寄進して建立した善照寺が、
今も行徳に現存しているそうです。
久左エ門は幕府から新田の開墾の許可を得た張本人。
これは是非、お参りしてみましょう。




青暘山 慧日院 善照寺




そもそもこの行徳の青山氏とは何か。
北条氏康の旗本だった青山浄故入道さんは、
小田原の役の後、落人となって、子息の伊予守と家臣と共に、
船で房州里見に向かったものの風向き悪くここ湊村に流れ着きます。
翌年浄故は失意の中、64歳で他界、息子の青山伊予守はこの時16歳。
青山伊予守は元の領地・武州六郷の菩提寺の法伝寺にちなみ、
ここ湊村に仏法山法伝寺を建立しました。
その後、青山伊予守は野武士となって湊村に住み、
内記・集人・久左エ門・四郎兵衛と四人の子供をもうけます。
青山伊予守は69歳で他界。法伝寺に葬ったものの、
この時法伝寺は今井浄光寺の末寺となっていた為に住職が不在だったので、
三男・久左エ門*1は新たな一寺建立を発願。
出入りのあった小松村の出の覚誉潮随上人を迎えて、
三縁山増上寺の末寺として、青山氏寄進「青暘山」を山号とし、
増上寺第十四世・桑誉了的大僧正により「善照寺」と命名されます。





石造五智如来坐像




境内に入るとすぐ左には墓地の前に、
この巨大な石造の五智如来像。
五智如来といえば密教というイメージ。
浄土宗では珍しいものですが、
それはさすがは大檀那の建立ですから、
お寺側は何も言えなかったのかも。(汗)




五智如来光背裏の銘



光背の裏の文字は五体ともにはっきりと読み取れます。
万治元年(1658)、青山伊予守の四男、
四郎兵衛正貞の子、四郎兵衛吉貞の建立です。




五輪塔と宝筺印塔




さて、墓地には真新しい赤御影の墓石の隣、
殿様クラスの五輪塔と宝筺印塔があります。
今も続くその青山家の奥都城です。




本堂



公式サイトによると、
行徳三十三観音札所の本尊の他にも、
歴史のある仏像が数々祀られているそうですが、
残念ながら窓からも中が見えませんでした。





青山文豹揮毫の山号額  九曜紋




山号額の揮毫はあの「葛飾記」の編纂者である青山文豹さん。
あの青山さんは、ここの青山さんだっのか・・・。
寺紋は九曜紋のようですが、当然こちらは千葉氏絡みでもなく、
墓石によれば、今も続く青山家の家紋とも違います。
はて?、なんで九曜なん??。



石造弘法大師像




行徳三十三観音霊場でもあって、
この辺りの弘法大師八十八ヶ所霊場でもあるようです。




人気ブログランキングへ ← 二つのブログランキングに参加しております。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ ← よろしかったら応援クリックをお願い致します。

*1:四男の四郎兵衛という説もあり。