習志野 誉田八幡旧跡

*1
祭神 誉田別尊(応神天皇)・神功皇后
275-0012 習志野市本大久保2-3 富士見公園




習志野 誉田八幡神社 その → 
→ 【吉橋大師第八十八番】習雲山 瑠璃光院 薬師寺




→ 市角 - Living, Loving, Thinking, Again




先日、こちらのsumita-mさんよりトラックバックを頂戴したもので、
改めて市角氏と誉田八幡勧請について三度目(?)を書きます。




関ヶ原に続き、やはり豊臣側について、
大坂冬の陣・夏の陣に敗れた河内の郷士、市角頼母は、
一族郎党を引き連れて関東に逃れ、
ここ現在の習志野市大久保周辺で帰農し、
名主職に任ぜられ、豪勢を占め、
現代も子孫が多く名士・地主として残ります。




帰農当時、長男が念持仏の阿弥陀如来を奉祀したのが、
後の習雲山・瑠璃光院・薬師寺となり、
長女は河内国の誉田八幡を勧請しました。
この「誉田」。千葉市の同じ地名では「ほんだ」と読みますが、
「こんだ」と読むのは、河内と同じ。




→ http://homepage3.nifty.com/furu1/mdata/furuichi/mac620b.htm




その辺のお話は、sumita-mさんが引用した、
こちらのサイトのおっしゃる通り。
しかし誉田八幡の創建は安政二年(1855) ではなくて、
この頼母の長女が、帰農直後に勧請したものが正しいようです。
元々は現在の習志野市本大久保3-4-1にありましたが、
現在の習志野市大久保4-4の地に遷った後に、
大正二年(1913)に旧跡に記念碑がおかれ、
さらに後に富士見公園内の丘の上に移動して、
最近またその公園の角の地に移動されました。
"本大久保"の名が示す通り、
市角氏の最初の拠点は、今のその辺りだったようです。




ちょっくら写真を撮りに散歩に出たものの、
SDカードをPC内に忘れてしまい、
携帯のカメラですみません。




誉田八幡旧跡の小祠




最近建て直されて、公園の角に移動した、
この誉田八幡旧跡の小祠です。
我が習志野市もこういった政教分離問題には、
あまりうるさくないようで、一安心。



→ 「政教分離」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地




誉田八幡旧跡の石碑




この石碑は大正二年(1913)当時のものか。
誉田八幡神社の真新しい御札が祀られていました。





誉田八幡旧跡




数年前まではこの丘の上に石碑があったと記憶しています。




さて、市角氏について。
様々なサイトでは、豊臣側の敗走先が、
徳川将軍家の直轄領というのは少しおかしいのではないか。
・・・と、いう意見を度々聞きます。
市角家は今も多く子孫のある家なので、
あまり無責任な推測を言えませんが、
大坂・河内では郷士に過ぎなかった家柄で、
「帰農」というのも大袈裟ですけど、
しかしいくらなんでも、
追われて領地を去るほどの敵方に、
徳川家が、名主職を任じるはずがないでょう。
私が想像するには、市角頼母氏は、
元々、徳川家側の間諜的な役割を担った方だったのではないでしょうか。




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*1:この旧跡は厳密に言えば神社ではありませんが分類上【他の神社】とさせていただきます。