延喜式内社(小社)
祭神 蘇我比竎大神・千代春稲荷大神
260-0822 千葉市中央区蘇我2-2-7
公式サイト http://www.sogahime.com/
こちらも往路気になっていた、
蘇我比竎神社にお参りしました。
こちらは日本武尊命伝説の関連で、
蘇我の地名の由来になったことには、
多少の知識を持ち合わせておりました。
正真正銘の延喜式神名帳に、
「下総国千葉郡蘇賀比竎神社」とあり、
式内社(小社)に列しています。
日本武尊命東征の際、
妃の弟橘姫を始めとする、
多数の家来を引きつれて船に乗り、
千葉沖に差しかかった時、
一行は嵐に遭い、
船は沈没の危機となります。
弟橘姫は、龍神の怒りを鎮めようと、
自ら同道して来た五人の姫達と共に、
海に身を投じました。
日本武尊と弟橘姫の伝説は、
「東」を「吾妻」と読むなど、
数々の伝承を残しますが、
身を投じた五人の姫の中に、
蘇我大臣の娘がいて、
この姫はこの地の海岸に打ち上げられ、
里人等の看護で蘇生をして、
無事に都に帰ったとか。
いや、ここですでに、
「蘇我」と「蘇生」が混同しており、
ちょっと怪しげではありますが、
この里人達が日本武尊命が崩せられたことを知り、
その霊をなぐさめんと社を建て祀ります。
後に八幡神となる応神天皇は、
この話に感激し、特命により、
蘇我氏をこの地の国造とします。
蘇我氏は、代々「春日神社」と、
「比竎神社」を守護神としており(?)、
両神社の御分霊を勧請し、
この「蘇我比竎神社」を建立しました。
白山比竎神社や、
春日神社が蘇我氏の守護神??
この辺り、おそらく、
都から流された藤原師経関連か、
蘇我氏と藤原氏との混同かと思われます。
近くには下総国二宮神社と、
延喜式内で論じられる、
寒川神社もありますから、
ひょっとすると蘇生した姫は、
藤原氏だったのかもしれません。
何やら寂しげな拝殿と、
微かに覗き見える本殿。
蘇我氏の歴史については、
衰退後に後の勢力が、
都合の良いように、
手を加えているもので、
全容がわからず、
都を追放された入鹿の実弟とも、
壬申の乱の後に、
蘇我氏が大友皇子を伴い落ちたとか、
諸説はありますが、
はたしてこの千葉の蘇我氏が、
一体どのような方々だったのか、
はたして後に流された藤原氏だったのか、
調べてみる価値はありそうです。
境内にある忠魂碑は、
よく見ると「希典書」とありますので、
乃木希典さんの揮毫です。
碑の裏を見ると、
明治四十五年(1912)三月建立とありますので、
殉死の約半年前の書とおもわれます。