宗派 北法相宗 大本山
本尊 千手観音
605-0825 京都市東山区清水1-294
公式サイト http://www.kiyomizudera.or.jp/
京都霊山護国神社から、
二寧坂(二年坂)、
産寧坂(三年坂)を通り、
清水坂に出れば、
ご覧の通り、
清水寺参拝者による大渋滞。。。
わずか200mの参道を進むのに、
ゆうに30分以上かかりつつ、
どうにか清水寺の門前に辿り着きました。
この重文の仁王門は室町時代の建立で、
寛永六年(1629)の大火をまぬがれたもの。
三重塔も重文で寛永再興時の再建で、
高さは約30.1m。
西門もこれまた重文で、
寛永八年(1631)の建立の切妻造。
しつこいようですが鐘楼も重文で、
慶長十二年(1607)の建立。
随求堂は享保二十年(1735)の建立で、
珍しく国指定の文化財ではありませんが、
信州善光寺と同じお堂の地下の暗闇を歩く、
「胎内めぐり」が行われています。
重文の轟門を潜り回廊を進むと、
その正面に見えるのは、
かの有名な国宝の本堂こと、
「清水の舞台」。
徳川家光の寄進による、
寛永十年(1633)の再建で
寄棟造檜皮葺きで正面の左右に、
入母屋造の翼廊が突き出て、
建物の前半部分は斜面にせり出す構造。
この舞台を支える柱は、
139本のケヤキだそうで、
釘は一切使われていないとか。。。
清水の舞台の南西の擬宝珠越しにみる、
京都の街並みと音羽山の紅葉。
・・・言葉はありません。
大混雑の人ごみに揉まれながらも、
ただただその美しさに心を奪われました。
ちなみに蛇足ではありますが、
「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、
塔頭の古い記録によりますと、
元禄七年(1694)から元治元年(1864)迄、
実際に飛び降りた人は未遂を含めて235件。
生存率は85.4%であったとか。
なお寛永再興時の再建の、
重文の阿弥陀堂と奥の院は、
どちらもこの通り改修中で、
本堂全貌を見渡す平地が狭くなり、
更に大渋滞になっておりました。
さて清水寺の参拝を終え、
朝の出発地点に戻ると、
夕方再訪するつもりだった、
三十三間堂も血天井の養源院も、
すでに参拝時間を終えて、
もう閉まっておりました。
・・・残念です。。。
朝五時から営業している、
京都の大人気ラーメン店、
本家第一旭たかばし本店。
朝七時半前には大行列だったんだけど、
午後四時半過ぎならば、
ひょっとしたら空いているかも・・・と、
淡い期待で行ってみたけど、甘かった。
すでに足が完全に棒なので、
新快速で大人しく新大阪に帰りましょう。
あ、昼飯食うの忘れてたし。。。。