華頂山 知恩教院 大谷寺 (知恩院) 〜法然上人御廟〜

宗派 浄土宗 総本山
本尊 法然上人像・阿弥陀如来
605-8686 京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400
公式サイト http://www.chion-in.or.jp/





黒門  国宝 三門
 



青蓮院のお次は隣接する知恩院
北の黒門前に出てしまったので、
わざと通り過ぎて改めて、
この国宝の三門から参拝。
華頂山」の勅額は霊元上皇の宸筆。
元和七年(1621)徳川秀忠の建立で、
日本最大の木造楼門。
先ほどの南禅寺三門、
そして東本願寺の御影堂門と並び、
京都三大門の一つです。




改修中の国宝・御影堂  




「忘れ傘」でも有名な、
寛永十六年(1639)再建、
徳川家光寄進の国宝・御影堂は、
残念ながら改修中でご覧の通り。
さてこちらの知恩院
浄土宗鎮西派の総本山で、
開基は法然となっていますが、
現在のような大規模で、
壮大な伽藍が建立されたのは、
門徒だった徳川家康が、
政権を取った後の、
江戸時代以降のこと。
元々ここは法然が後半生を過ごして、
亡くなって、葬られた所縁の地で、
嘉禄三年(1227)には、
延暦寺の衆徒により、
破壊されたこともあります。



阿弥陀堂  重文 経蔵





御影堂の西に建つ阿弥陀堂は、
明治期に建てられた唯一の建造物。
その昔、阿弥陀堂は第二世源智によって、
元の法然の住房のあった、
勢至堂の前に建立されますが、
宝永七年(1710)にここに移築され、
廃仏毀釈で荒廃して取り壊され、
明治四十三年(1910)に再建されたもの。
一方、御影堂の南東にあるのは重文の経蔵。
三門と同じ元和七年(1621)に建立で、
外側の静かな佇まいとは対照的に、
内部は鮮やかな色彩の八角輪蔵があり、
その輪蔵を一回転させれば、
大蔵経を読誦するのと、
同じ功徳を積むそうですが、
残念ながら内部は非公開デス。



御廟・勢至堂への石段  御廟・勢至堂入口





御影堂の東側、
小高い山の中腹に昇る石段。
これを上がれば、
御廟と勢至堂があります。




法然上人御廟・拝殿  拝殿




法然の遺骨を奉安する廟堂。
つまりは法然のお墓です。
法然は建暦二年(1212)、
この地にあった大谷禅房で入滅し、
門弟たちによって廟堂が建てられますが、
先ほども触れたとおり、
後に延暦寺門徒に破壊されます。
現在の拝殿は宝永七年(1710)の建立。




御廟




また御廟は、慶長十八年(1613)、
常陸国土浦藩主だった、
平信一の寄進による改築です。





勢至堂




霊廟の西下にあるのが、
本地堂とも呼ばれる勢至堂。
法然の住房のあった地であり、
法然終焉の地でもあります。
勢至堂は境内の建物の中では最も古く、
享禄三年(1530)の建立で、
当初は本堂(御影堂)でした。
法然の幼名は勢至丸だった事もあり、
浄土宗では宗祖・法然を、
勢至菩薩の生まれ変わりとしているそうで、
現在は法然本地仏として、
勢至菩薩像を祀っています。




千姫の墓  濡髪大明神




勢至堂の先、北側に、
この千姫の墓と濡髪大明神があります。
千姫の墓は東京の伝通院、
また天樹院弘経寺にもありますが、
こちらはそれらの分骨のようです。
今年は姫路城といい千姫とご縁があるなぁ。。。
一方、濡髪大明神は、
新しい御影堂が出来た為、
住家を追われたキツネが、
霊巌島、霊巌寺でおなじみの、
第三十二世の霊巌上人にお願いして、
代わりに用意してもらった堂宇で、
この「濡髪」というのは、
キツネが童子に化ける際に、
髪が濡れている事に由来しますが、
「濡髪」が艶やかな女性の姿を想像し、
祇園の女性たちの信仰を集めて、
今では縁結びの神様として
広く親しまれているとか。





大鐘楼




さてこの釣鐘は高さ3.3m、
直径2.8m、重さ約70t。
京都・方広寺、奈良・東大寺と並ぶ、
日本三大梵鐘の一つで、
これまた寛永十三年(1636)、霊巌の時代の鋳造デス。
一方、鐘楼は延宝六年(1678)の造営で重文ですが、
この大鐘が鳴らされるのは、
四月の法然上人の御忌大会と、
晦日の除夜の鐘だけなんだそうです。