龍興山 南宗寺 (徳川家康墓 その二・千利休墓・三好長慶墓及び像等)

国指定名勝 南宗寺庭園
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 釈迦三尊
590-0965 堺市堺区南旅篭町東3-1-2






日光東照宮 → 徳川家康墓 その一





さて堺で二件目のアポを終えて、
やはり長年の課題だったお寺を訪れてみました。




大坂夏の陣茶臼山の激戦で、
真田信繁に押されて退却した徳川家康は、
駕籠で逃げる途中に後藤基次の槍に突かれて、
実は絶命していたという説があります。
ひとまず影武者を立てて、
密かに堺に遺骸を運び、
とある寺の堂の下に隠して葬り、
その一年後に病気で「逝去」したとして、
こっそりと改葬をしたとか。
秀忠、家光もその寺を参詣した記録もあるそうです。





南宗寺  山内図





それがこの堺の南宗寺なんです。
元々は大永六年(1526年)に古岳宗亘が、
堺南荘にあった庵を南宗庵と名付け、
これを法嗣・伝庵宗器に継がせたものの早世し、
もう一人の法嗣・大林宗套が三代目となったものを、
弘治三年(1557)に三好長慶が、
父・三好元長の菩提を弔うべく、
大林宗套に開山を依頼して、南宗寺が創建されました。
創建当時は現在の堺市宿院町付近にあったと伝わります。





甘露門  甘露門としだれ梅





総門をくぐり墓石の立ち並ぶ参道を突き当たると、
正保四年(1647)建立の、
山門である甘露門は国指定の重文。
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の美しい造形。
そしてまたすぐ近くに咲くしだれ梅がまた見事。




三好長慶像





建立した三好長慶の坐像があります。
ブログの長さの都合上、
不本意ですがWikiのリンクを貼ります。




→ 三好長慶 - Wikipedia




案内板  参道





さて参道をすみますが、
それぞれ境内に立ち並ぶ塔頭は、
すへで内部は一般公開がされていません。




鐘楼  椿の井戸




鐘楼は文政年間(1818-1830)に焼失しますが、
現在のものは明治元年(1912)以降に再建したもの。
千利休屋敷で使われたという井筒を使った、
「椿の井戸」は写真を撮り忘れたもので、
リーフレット写真の転載です。




仏殿  仏殿天井の八方睨みの龍





承応元年(1652)建立の方五間本瓦葺の本堂である仏殿は、
これも重文で、正面からの撮影は可能ですが、
内部は当然撮影禁止です。
本尊は質実な釈迦如来像、
天井の豪快な「八方睨みの龍」は狩野信政の筆。




坐雲亭




さて仏殿左の入口を入り、
禅堂を回り込み、受付で拝観料を納めると、
先ほどから転載している、
リーフレットをいただけますが、
これより内部は露天であっても、
写真撮影が一切禁止です。
しかしそのリーフレットに、
「無断転載禁止」の表示がなかったので、
カメラで撮影をして使用させていただきます。
写真は山内最古という「坐雲堂」。
ここに秀忠・家光の御成を記した板額があるとか。





利休一門供養塔  開山堂跡 伝説の徳川家康の墓





千利休一門の供養塔(中央が千利休墓)や、
その師の武野紹鴎墓、また三好一族の墓所の手前に、
小さな無縫塔(卵塔)があり、
これが昭和二十年(1945)に焼失した開山堂の跡地で、
その床下にあった徳川家康の最初の墓石とか。
文字を読み取るとこは不可能でしたが、
墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる碑文があり、
「この無名塔を家康の墓と認める」
と、記してあるそうです。





家康の墓 東照宮跡碑  唐門






またその手前に現在堂々と、
徳川家康の墓」としている碑と、
それを覆う小祠は、
延宝七年(1679)に建立されたという、
東照宮跡地で、
現在のものは昭和四十二年(1967)に、
水戸徳川家家老裔、
三木啓次郎氏が建立したものです。
手前の重文・唐門は元の東照宮の門であり、
十七世紀中頃の建立と推定されています。






手水鉢





千利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟型手水鉢」や、
武野紹鴎遺愛の「六地蔵石灯籠」、
方丈・枯山水など見所は盛沢山ですが、
重ね重ね写真撮影禁止は残念でなりません。