祭神 菅原道真公
553-0003 大阪市福島区福島2-8-1
公式サイト http://www.tenmangu.com
朝食後、まだ出勤するには、
ほんの少し早かったもので、
「うどん讃く」の入口にあたる、
なにわ筋「上天神」交差点にある、
福島天満宮にお参りしてみました。
元々ここ福島には三つの「天神」があり、
こちらがその「上の天神」と呼ばれ、
福島区福島4丁目に「中の天神」があって、
福島区玉川に「下の天神」(現・天神社)がありますが、
「中の天神」が空襲で焼失してしまい、
こちらに合祀された為、
今は交差点のみにその呼称を留めます。
さて、菅原道真公が左遷されて、
京都から大宰府に向かう道中、
特に道真公に所縁の深い、
二十五社を順拝する風習があります。
それを「菅公聖蹟二十五拝」と呼びますが、
こちらはその第十二番になります。
醍醐天皇の治世の延喜元年(901)、
失意の旅路でこの地を訪れた道真公一行を、
徳治郎という里人が心からもてなし、
とても喜ばれた菅公は、
心からのお礼の印にと、
里人の織った衣に、
自らの姿を描き与えました。
また当時「鹿飢島」(≒餓飢島)、
「葭原島」(≒悪し原島)と、
呼ばれていた当地を「福島」と改め、
徳治郎には「福元」という姓を与えました。
(この福元家は今も存続しているとか。)
菅公はここてで歌を詠まれ後、
ここにあった梅の一木の枝に、
松の枝を添えて差すと、
なんとそれが一本になり地に根を下ろし、
元禄年間(1688-1704)まで葉を茂らせていたとか。
さて道真公が太宰府に赴かれた二年後、
延喜三年(903)に逝去の訃報を知り、
里人達はその徳を慕う余り、
延喜七年(907)、
その梅松二枝の根を下ろした場所に、
小祠を建てて菅公を祀りました。
これがこの神社の創建になります。
翌年延喜八年(908)には、
相殿神として大国主命・事代主命を合祀。
源平時代の寿永年間(1182-1183)には、
平氏追討の源義経がこの福島に陣を張り、
戦勝の祈願をしたことが、
近くにある『逆櫓之松跡』と共に、
今日まで伝わります。
菅原道真公の御自画の御神影は、
今も御本殿に御鎮納されているそうですが、
宝暦八年(1758)の改築を経て、
嘉永三年(1850)に造営された社殿は、
明治四十二年(1909)の、
「天満焼け」と呼ばれる大火で灰燼に帰すも、
本殿は大正四年(1915)、
拝殿以下は大正十年(1921)に竣工します。
また先の大戦では、
空襲で境内に十一発の焼夷弾が着弾するも、
不思議にも全発が不発だったそうです。
しかし昭和四十二年(1967)に、
「なにわ筋」の拡幅に伴って、
約120坪(397㎡)の寺域を失い、
今のこの狭い境内となりました。
本殿の写真が撮りたかったのですが、
北側に神社が創設した「福島幼稚園」があり、
「写真撮影禁止」の貼紙があった為断念しました。
行く水の 中の小島の 梅さかば
さぞ川浪も 香に匂ほらむ
雨上がりの福島天満宮、
拝殿の前の梅一枝に、
道真公がここで詠んだ歌をそえてみました。