西郷寅太郎墓・西郷糸子墓

107-0062 港区南青山2-32-2 青山霊園1種イ11号22側




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さて、お約束の昨日撮影した、
青山霊園にある著名人のお墓紹介。
初回の今日は、あまりガイドブックにない、
西郷隆盛の嫡男とその母の正妻を取り上げます。




西郷寅太郎墓



   

「陸軍歩兵大佐侯爵西郷寅太郎墓」





西郷どんの嫡男*1、)*1
西郷寅太郎さんは慶應二年(1866)生。
でっぷりとした肥満体のお父さんと違って、
同じ墓地に並ぶ、お母さんの糸子さんに似て、
面長で痩せていたそうです。




→ 西郷寅太郎 写真

→ 西郷糸子 写真





西南戦争の後は、
母と供に鹿児島で隠棲していましたが、
海舟こと、勝っあんや、
西郷隆盛銅像作成でも活躍した、
吉井友実さんの働きかけにより、
明治十八年(1884)にドイツへ留学。
帰国後、戸山陸軍兵学校を卒業して、
近衛第二連隊の歩兵少尉となります。





明治二十二年(1889)、
父の故西郷隆盛は、
大日本帝国憲法発布の大赦で、
正三位を追贈されます。
つまりもはや賊将ではないと許されたのです。
そして明治三十五年(1902)に父のその偉勲によって、
西郷家は特旨をもって侯爵となり華族に列しました。





西郷寅太郎は貴族院議員にもなり、
大正五年(1916)には大佐に昇進しますが、
習志野俘虜収容所長在職中の大正八年(1919)1月1日。
第一次世界大戦敗戦の衝撃に沈んでいる、
収容されているドイツ兵俘虜を励まそうと、
当時猛威を振るっいたスペイン風邪という名の、
新型インフルエンザが流行する中、
自らもそれに罹っておったものの、
高熱を忍し医師が止めるのも聞かず、
年頭のあいさつに収容所へ向い倒れ、
その日の内に亡くなったそうです。享年五十三。




西郷糸子墓



お隣の西郷糸子さんは、
西郷隆盛像の時に書いた、
上野の銅像の除幕式で、
「やどんしはそげなお人じゃごわはんじゃした。」
「浴衣で散歩はしもさんど。」
と、ぷりぷり怒ったという西郷どんの正妻さんです。




天保十四年(1843)生の、
薩摩藩士岩山八郎の次女、イト。
初め他家に一度嫁いだものの、
直ぐに実家に戻された、
当時としては蔑まされた立場でありましたが、
そこは西郷どん、器が大きく「よかよか」だったとか。*2
この時、西郷どん三十九歳、イト二十三歳。




寅太郎を含む自ら産んだ三人の男子を育て上げただけでなく、
島妻・愛加那の子、西郷菊次郎や、西郷菊草も、
引き取って育てたそうです。
寅太郎に先立たれた後は、
寅太郎の次弟の西郷午次郎の家で暮らし、
大正十一年(1922)に亡くなりました。




西郷家墓地





現在もこちらは、
今も続く西郷家のお墓です。
墓地には他にもも多数の墓石が並びます。
その辺り、諸事情ご高察の上、
お参り願いたくお願い申し上げます。




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*1:長男は遠島中に島妻・愛加那との間に生まれた庶兄にあたる西郷菊次郎

*2:西郷どんにも島妻・愛加那の前に一度離婚歴があります。