宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来
275-0017 習志野市藤崎2-11-9
今日は長男は「とある塾」の講義です。
かみさんはマンションの自治会の企画で、
パーティルームにハーモニカの世界チャンピオンが来るそうで、
私と次男は最近恒例になりつつある、
二人で地元の郷土史研究に出掛けます。
今日まず最初に伺うのは、
昨日伺った藤崎墓地の、
現在の管理者である、
その同じ藤崎町内の、
藤崎山正福寺さんです。
元々正福寺さんの寺域は大変広かったそうですが、
現在中央に道路が走り、分断されています。
元の境内の中央部分にあったこの大イチョウが、
現在この歩道中央に残されて、
習志野市の天然記念物に登録されています。
絶え間なく走る自動車に根を痛められ、
私が中学生の頃に一度枯れそうになりましたが
瀕死寸前を有名な樹医により助けられたと聞きました。
現在はとりあえず元気のようです。
樹高約20m、目通り幹囲約4m、根廻り約11m、
樹齢約400年と推定されるこの大イチョウ。
これからもずっと長生きしてほしいと願うばかり。
道路に分断された西側寺域、
聖観音を祀る観音堂があるこちら。
賽銭を投げ入れる為、
刳り抜かれた箇所から覗く堂内。
観音様は秘仏のようです。
この境内には江戸中期から後期にかけた、
墓石が多く現存しています。
昨日の藤崎墓地よりも、
一見して歴史のある墓石が多々あります。
この六地蔵も安永三年(1774)の建立です。
他にも享保七年(1722)の地蔵菩薩、
延享二年(1745)、
明和元年(1764)の如意輪観音など、
歴史のある石仏がいっぱいです。
さてこれは「筆子塚」。
そもそも「筆子塚」とは、
江戸時代一般庶民の教育機関であった、
「寺子屋」に通った教え子「筆子」が、
その師匠が亡くなった後に偲び、
みんなで費用を出し合って建てたお墓なのです。
この筆子塚の、この師匠は、
安政五年(1858)に亡くなった、
田久保伊三郎さんと、その奥さん。
台座には「當村」(藤崎)、久々田村(菊田)や、
大久保新田(大久保)、「御山村」(三山)等の筆子の名が、
びっしりと刻まれておりました。
この西側寺域中央、
現在一番目立つのは、
平成九年(1997)に建立された、
この藤崎観音です。
道路に分断された、東側寺域。
横断歩道を渡り、お参りしました。
お寺の由緒や創建年代は不詳ですが、
慶長二年(1597)の棟札があったそうでかすら、
それ以前にここにあったと推定していいでしょう。
本堂のあるべき中央は、
住職のご自宅そのもので、
合掌する対象ではないようです・・・。
ただ、そのご自宅の向かいには、
この吉橋大師第十一番と第四十番の札所と、
習志野七福神・布袋尊の小祠があり、
ああ、ここはお寺なんだなぁという、
外観を辛うじて留めておりました。
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