国指定史跡 内裏塚古墳
293-0002 富津市二間塚字東内裏塚1980他
流れ流れて君津に来まして、
そうそう富津に是非行って見たかった、
古墳があったのを思い出しました。
母も古墳は嫌いではないので、
概要を話してみるとすっかり乗り気デス。
二間塚に所在する内裏塚古墳は、
墳丘全長144メートルの前方後円墳で、
千葉県最大かつ南関東最大の古墳である。
この古墳の発掘は明治39年に行われ、
後円部中央から2基の竪穴式石室が見つかり、
石室内から人骨と銅鏡・刀剣類・農工具・
金銅製胡籙金具・鳴鏑などが出土した。
また墳丘には円筒埴輪列がめぐり、
人物埴輪も確認されている。
5世紀中頃の築造と推定される。
出土品の多くは、現在、
佐倉市の国立歴史民俗博物館に
展示・保管されている。
平成14年国史跡。〜富津市公式サイト「市宝探訪(遺跡)」より引用〜
内裏塚古墳群中最大の内裏塚古墳。
地元では「オダイリヤマ」とも呼ばれていて、
全長は約144メートル。
県道157号線から古墳北西側の上り口入口に、
明治三十九年(1906)の調査後に、
大正期に建てられたとみられる、
この標石がありました。
まずは古墳の北西側に車を停めて、
石室二基があったといわれている、
後円墳に上ってみましょう。
五世紀中頃に造成されたと、
推定されているこちら。
当時この辺りは須恵国造の地と云われ、
「国造本紀」(先代旧事本紀)によれば、
須恵には茨城国造の祖・建許侶命の子、
大布日意弥命が任命されたそうです。
大布日意弥命の兄弟、
深河意弥命は小櫃川流域の、
馬来田国造として任命されています。
須恵国造は小糸川下流域全域を、
支配下に置いたとされているので、
この内裏塚古墳の被葬者は、
この須恵国造の墓ではないかと、
云われています。
北西からの上り口は、
明治・大正期の調査で開かれたものなのか、
かなり急な登り坂デス。
円墳東側にも別の上り口があります。
古墳の多くは時が過ぎで、
古の支配者の墓であることを忘れられると、
何か他のモノを祀る、
神社になってしまうことが多々ありますが、
こちらも万葉集の高橋虫麻呂の歌に登場する、
「珠名娘子」の墓であるという、
伝承があったそうで、
大正四年(1915)に近くの、
飯野神社に合祀されるまで、
円墳丘上には珠名姫神社があったそうです。
神社時代のものと思われる、
石段と狛犬が残っています。
円墳の上には、
やはり神社時代の手水鉢と、
江戸末期建立の珠名冢碑がありました。
円墳の頂上、主石室があった場所に、
調査後の大正四年(1915)に建てられた、
「内裏塚古墳」の碑が建っています。
いや、こんなものよりも、
ちゃんと石室二基が見学出来るような、
設備を残してほしかっったものデス。
後円墳から前方墳側に向けて、
古墳の尾根を歩きます。
これは立ち入りが許された古墳探訪で、
古墳マニアの醍醐味の一つです。