密厳院発露懺悔文のおいら訳

覚鑁さんの懺悔の文。
確かに現代人には分かりづらいかも知れません。
そんでもってこれ、おいら訳。
文句なし。わしはそう感じてます。




私たちは、悔い改めます。
いつが始めも分からない昔から、妄想につきまとわれて、
多くの罪をつくってきました。
身体と言葉、精神と行動はいつも全く逆で、
間違って数え切れないほどの良くない行いを犯してきました。
大事な財産は惜しいので、困っている方がいるってお布施は出来ません。
自分の望み通りに好き勝手に生活したいんで、規律のようなものは嫌なんです。
しょっちゅうイライラして怒り、我慢できません。
いつもサボりたいと考えるので進歩がなく、
心で思っていることも乱れているんで落ち着くこともできません。
真実の生き方に背いて知恵を学ばずに、いつもこんな感じで、
布施、規律、忍耐、進歩、禅定、知恵のような修行を怠けて、
逆に地獄、餓鬼、畜生の世界を流転するようなもんなんです。
修行僧のふりをしてお寺を汚して、
お坊さんのかっこをして、お布施をもらっている。
教わった戒めはすっかり忘れちゃって、守らない。
教わらなくてはいけない、良いことはしないし、好きじゃない。
仏になろうと苦労している人をみても畏れないし、
遊んで、笑って、騒いでいるだけで、ぼけーと時を過ごし、
強いものに巻かれるような、うそっぱちの年を送る。
善い友達に従わないで、アホと仲良くして、
良いことをしないで、悪いことばかりしている。
欲を出して自分の才能を自慢するんだけど、
すごい徳のある人がいれば嫉んでいる。
自分よりアホだと思えば、おごり、
金持ちの様子を聞けば、そうなりたいと思う。
貧乏人を見ればいつも嫌気を抱く。
生き物の命をわざと奪ったり、間違って殺したり、
他人の財産をとっちゃったり、そっと隠れ盗んだり。
女の人に触っても触らないでも、
いやらしい気持ちが湧き出ている。
嘘をつき、飾り立て、中傷し、二枚舌をつかい、
限りない欲、憎しみあう悪心、痴愚のおこないがあいつぐ。
仏様を観じて念じるときには、心が集中しないので他の事を考えて、
お経を読むときには文句を間違える。
いいことをすれば、その結果を期待する執着が、逆に迷う原因を作る。
この修行中、自分で分かっていようがいまいが、
やってしまったとこのこんな罪を
今、仏と法と僧にという三つの宝に申し上げます。
慈悲哀れみで全部許してください。
全部告白して悔いあらためます。
世界中のすべての人々の、
身体、言葉、精神にかわり悔い改め
更にその報いをすべて私が承ります。




んー・・・。やっぱりまだ軽いなぁ・・・。
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