浅野内匠頭終焉之地

浅野内匠頭終焉之地の碑

105-0004 港区新橋4−31前歩道




日比谷通りの新橋四丁目の歩道にこの碑はあります。
碑の正面は車道に向いているので、
歩道を歩いていても気付かない人もいるでしょう。
案内板   
碑の隣に立てられたこの高札に似た案内板も、
何故か車道に向けられています。
歩道・裏からみればこんな感じ。
あんまり目立つませんが、
自刃後二百四十年を記念して、
皇紀二千六百年に建立されたと刻まれています。
碑・裏
つまりは元禄十四年(1701)から240年後の、
昭和十五年(1940)に建てられたものなんです。




この地は奥州一之関藩藩主、田村右京太夫上屋敷でした。
浅野内匠頭長矩は、元禄十四年(1701)辛巳三月十四日、
松の廊下跡
江戸城松の廊下で吉良上野介義央への刃傷事件を起した当日の夕刻、
この上屋敷の庭先で切腹したといわれています。
たとえ、江戸城・殿中で刀を抜いた罪人扱いであっても、
一国の主である藩主が、ひとんちの庭先で切腹するというのは、
とんでもない恥辱であったはず。




私は「元禄赤穂事件」と、
歌舞伎の「忠臣蔵」は別物であると、
何度かこのブログで書いていますが、
ともかく松の廊下刃傷事件から始まり、
田村家上屋敷での浅野内匠頭長矩切腹から、
日本人が愛して止まない、
あの復讐劇、テロ事件が、
幕を開けたことは紛れもない事実です。




浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央。
その功罪は今も飽きられず語られるところですが、
なんにしたって、一国を潰すことが明らかながら、
刀を抜く浅野は浅はかだと言わざるをえない。
・・・自分もかっとなるとやりかねないタイプなんで、
反面教師にさせてもらいます。





ブチ切れる前に、黙って10数えよう。




「やぁ、園長さん、ご機嫌いかが。」(作笑)






浅野内匠頭長矩 辞世の句

風さそふ 花よりもなほ 我はまた 


     春の名残を 如何にとやせん


makoto-jin-rei 辞職したいの句

辞意さそふ 転職するには 我は年 


     猟虎男め 如何にとやせん


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