宗派 黄檗宗
本尊 釈迦牟尼仏
181-0013 三鷹市下連雀4-18-20
公式サイト http://www.zenrinji.jp/
今日の午後は珍しく手が少し空きました。
タヤパンが三鷹の得意先に、
人員交代のお詫び報告に伺うというので同行してみました。
遠路はるばる折角やって参りました三鷹です。
三鷹には何度か伺っているものの、
なぜか今まで私にはご縁がなかったのか、
どうしてもお参りしたかったお寺があります。
お墓マニア、掃苔家が垂涎の的とするお寺です。
久しぶりの(社名略称)掃苔部活動として行って見ましょう。
神社仏閣ブログを称しながら、
7月10日以来の寺院の記事です。
さて目的のお寺は、
森鷗外と太宰治の墓がある三鷹、禅林禅寺。
禅寺ということは知っていましたが、
臨済宗なのか、曹洞宗なのか、
まったく知らずに伺ってみれば、なんとまさかの黄檗宗。
禅宗単立黄檗系の寺は一度記事にしましたが、
正真正銘の黄檗宗の寺院は、
このブログ初のお参りになります。
さて独特の雰囲気の山門です。
なんだか西遊記の建物みたい。
山門左手には、禅寺らしく、
「不許葷酒入山門」の石碑がありますが、
やはり黄檗宗というとなんとなく中国の香りを感じさせます。
大汗かいた布袋様がいそうな、そんな感じ。
元々は明暦の大火によって移住して来た、
神田連雀町の民衆が創建した浄土真宗本願寺派のお寺でしたが、
元禄十三年(1770)の台風で倒壊してしまい、
黄檗宗のお坊さんが再興して改宗し現在の寺号に改名したそうです。
山門をくぐり、振り返ると、
この山門の正面左側は、鐘があり、
なんと右側は化粧室・・・。
私にはどうも抵抗があって、
少し尿意があったものの利用できませんでした。
この山門の先に、
友人の賀古鶴所が代筆した、
森鷗外の遺言碑があります。
要するにこの遺書は、
軍医としては、陸軍中将にあたる、
陸軍軍医総監、陸軍省医務局長も努め、
階位も正四位、そして勲二等・功三級を受け、
小説家としても鷗外の号を轟かせたものの、
最終的には、森林太郎として逝きたいという願い。
正直私、実は今日の今まで森鷗外ってちょっと苦手だったんですが、
その認識も少し変化しました・・・。
おや、そのすぐ近くに朽ち果てた、
「不許葷酒入山門」の碑の残骸があります。
山門正面は方丈で、本堂はその左手です。
禅寺らしく質実剛健。賽銭、一拝一礼し、
その本堂右側をくぐり、境内北側の墓地を目指します。
方丈には土産物として、
先ほどの鷗外の遺書と、
永井荷風の書による「沙羅の木」がおかれているようです。
さて墓地入口には、石造地蔵尊がいくつか祀られておりますが、
明治以前の古いものは、皆、首が接がれていました。
おそらく、隣接する八幡社との神仏分離に揉めた結果のものなのでしょう。
さて、森家の墓域です。
さて鷗外の遺言通り、
官位も、軍の階級も、小説家としての号のない、
「森林太郎墓」としかありません。
左側側面にも、命日の「大正十一年七月九日没」のみ。
さっぱりとしていて気持ちがいいです。
墓碑の書は、中村諴太郎とありますが、
遺言によれば、これは、
中村不折のことのようです。
実はこの森鷗外の墓。
元々は向島の黄檗宗の弘福寺にありましたが、
被災してしまい、鷗外死後五年の後の、
昭和二年(1927)に移設されたものなんですが、
鷗外を尊敬していた太宰治は、
彼の生前の強い希望で、
その墓のすぐ近くに、自らから墓地を指定したとか。
そんな訳で、鷗外の墓の先すぐ左側、
太宰治こと本名・津島修治の眠る津島家墓域。
何度目かの愛人との心中としいう、
センセーショナルな死様の太宰ですから、
ここに墓を建てる際にも、
檀家の強い反対があったそうですが、
当時の住職の説得によりここに建立がなされたそうです。
墓域の中心は、太宰の自署が刻まれた、
この墓石が真ん中に陣取ります。
裏側をみれば、奥様である、
津島美知子さんが施主であるという刻銘があります。
奥様はつい十二年前の平成九年(1997)までご存命だったんですね。
真ん中の墓石が作家、太宰治の墓石であったのに対し、
その左手の津島家之墓にはも改めて、
また本名・津島修治の戒名・命日が刻まれております。
中央は作家、大宰治の墓。左側は本名、津島修治の墓という、
遺族の気持ちの切り替えのようなものを感じます。
また、太宰の誕生日であり遺体発見の6月19日には、
ここで太宰を偲んで、桜桃忌がおこなわれているそうです。
山門にあった、桃の彫刻はこの桜桃忌にちなむものなのか?。
ただの中華的な紋様か。
これは結局不明のままです。
さて墓地最北西端には、
この三鷹事件遭難者慰霊塔があります。
下山事件、松川事件と並び、
国鉄三大ミステリー事件とも称されるこの無人列車暴走事件。
碑の裏側には、
この事件の犠牲者と、
関係各者の名前が刻まれています。
さて、帰ろうと、墓地から、
境内の建物を望むと、
その建築物の左右には、
必ず鯱(しゃちほこ)が載っています。
これも黄檗宗独特のものなのかなぁ〜。
・・・面白いです。