祭神 稚産霊神・豊受比売神・宇迦之御魂神
104-0043 中央区湊1-6-7
公式サイト http://www.teppozujinja.or.jp/
築地の企業を訪問したので、
鉄砲洲通りを歩いてみました。
鉄砲洲といえば、歴史ヲタには、
赤穂藩浅野家上屋敷があった場所として有名ですが、
実はその他にも、江戸幕府開府前からの由緒を誇る、
御鎮座一千百七十年の古社もあります。
お参りしましょう。
鐵砲洲稲荷神社です。
そもそもこの神社の「生成り太神」は、
平安時代初期に江戸湊の入口に祀られたのものですが、
埋め立てが進むとともに海の近くにと遷座を繰り返し、
室町時代末期(1520頃)には、
当時の海岸線であった今の新京橋へと遷り、
「八町堀稲荷神社」と称されました。
その後、江戸幕府が開かれ、
やはり埋め立てにともなって、
寛永元年(1624)に、この鉄砲洲にと遷り、
そこにあった八幡神社を摂社として合祀します。
鉄砲洲とは、この地が、徳川家康入府の頃には、
南北約八丁(872.7m)の鉄砲のような形をした、
細長い川口の島だったことに由来します。
ただし当時は現在の地よりも北東にあったという、
稲荷橋の南東詰にあったそうで、
現在地に遷座したのは明治元年(1868)のことです。
大鳥居の手前には、渡来系なのでしょうか。
この小さなユーモラスな狛犬がとてもいいです。
関東大震災で甚大な被害を受け、
昭和十年(1935)復興・整備された境内。
この正面の拝殿も、
境内左手の神楽殿も、摂社八幡神社も、
右手の社務所や手水舎も、
その際の造営と想像されます。
摂社八幡社とされる社殿には、
おそらく復興・整備前に境内に散らばっていた、
末社であろう神々も一緒に祀られていました。
ただし、とある末社一社のみはここにありません。
さて、ひょっとするとこのままこれで、
気付かずにお帰りになられる方もいらっしゃるかも知れませんが、
この神社の江戸時代からの名所は、
この通り、浮世絵にもよく描かれた富士塚です。
拝殿右手から、西北の隅にと進んでください。
ほーら、凄いでしょ。
ビルとビルの隅に佇む霊峰富士。
中央区内唯一の富士塚です。
特に登山禁止(立入禁止)の表示はありません。
スーツ姿で富士登山。
五合目周遊道である、
「お中道」までも綺麗に整備されています。
五合目からみる鉄砲洲稲荷神社本殿の千木・鰹木は、
目指す浅間神社山頂の小祠と同じ高さにあります。
浅間神社山頂からみる鉄砲洲稲荷神社の境内。
なかなかの迫力、足場も小さいので、
高所恐怖症ならかなりビビることでしょう。
裏登山道から下山すると、
山麓には、寛政二年(1790)に造営し、
明治元年(1868)に移転したという石碑がありました。
隅田川テラスからみる佃大橋と佃島。
旧社地はこの北の隅田川、川上にありました。
旧社地のすぐ近くには今はこの南高橋がかります。
大正十二年(1923)に関東大震災復興事業によって、
損害の少なかった両国橋の中央部分を補強・再利用して作った橋だそうで、
都内に残る鋼鉄トラス橋としては、二番目に古く、
車両が通行可能なものでは都内最古、
全国でも6番目に古い鋼鉄トラス橋なんだそうです。
この橋の北東詰には、
「徳船稲荷神社」という小さな神社があります。
越前松平家の下屋敷に祀られていた稲荷社で、
御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものだったとか。
明暦三年(1657)の振袖火事にも御神体のみは類焼を逃れたそうですが、
大正十一年(1922)までは、別の恵比須稲荷に安置されます。
昭和六年(1931)に現在の中央大橋北詰に付近に社が復活しますが、戦災で全焼。
昭和二十九年(1954)に再現の後に、
平成三年(1991)に中央大橋架橋工事によりここに遷座されました。
佃大橋上から永代橋をみると、
今日もまた東京スカイツリーがニョキニョキと伸びて行きます。
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