海応山 不動院(船橋不動院) 〜飯盛り大仏、岩田団治郎・内海仁右衛門供養塔〜

宗派 真言宗豊山派
本尊 不動明王
273-0005 船橋市本町3-4-6




帰りの下りの京葉道路は、
船橋ICから幕張ICまで渋滞していました。
どうやら上りの幕張IC付近で大きな事故があり、
下りも見物渋滞してしまったようです。




船橋ICで降りるも、
平日はかなり混んでいます。
船橋駅近くの渋滞を避け、
裏道、抜け道を使い、
細い一方通行を抜けていると、
左手にあるお寺の門前に、
石造坐像の仏様が目に入りました。
そのすぐ横にあった標石には、
確かに「大仏」という二文字が読めました。
この男、「好きなもの」「興味のあるもの」に関しては、
動体視力さえも超人的に働くのです。




飯盛大仏と漁師総代供養塔  
 



「大佛追善供養記念碑」とあります。
坐像で60cm〜70cmほどしかなく、
まったく「丈六」を満たしていないので、
「大仏」と呼ぶにはちょっと小さ過ぎます。



鎌ヶ谷大仏といい、千葉の奈良大仏といい、
千葉県は「大仏」に対する「基準」が甘いですね。








案内板を読んでいるうちに、
昔、聞いた「お話」を思い出しました。
これは「飯盛り大仏」と呼ばれているお釈迦様です。
この「大仏追善供養」は、
船橋市の指定文化財民俗文化財)に指定されています。



時は文政七年(1824)のこと。
ここ船橋村の漁師と、
猫実村(現在の浦安市)の漁師との間で、
漁場の境界を巡る係争が起こりました。
そんな折、船橋村の占有漁場に、
他の村の漁船が浸入して来ました。
その中の一船は、一ツ橋家の幟を立ており、
一ツ橋家・家中の武士が同乗していたものの、
怒った船橋村の漁師は、その侍を殴打し、
幟を奪ってしまったそうです。




事態を重く見た幕府(代官所)は、
船橋村漁師総代三名を入牢させます。
総代達は、牢で差し出される食事に手をつけず、
今で言う「ハングリーストライキ」で抗議したとか。



結局一人は獄死し、
一人も牢を出てすぐ亡くなりました。




この二人の総代の霊を供養しようと、
元よりここにあった、
延享三年(1736)の津波ので溺死者供養の為の、
この石造釈迦如来坐像に、
文政八年(1825)の正月28日から、
毎年1月28日(明治以降は毎年2月28日)に、
「大佛追善供養」が行われているんです。



飯粒の残るお顔 



この供養式では、大仏様の口から肩にかけ、
白いご飯をべっとりと盛りつけます。
このご飯を少しづつ持ち帰って、家族に食べさせると、
その一年は無病息災だと言われているとか。
今年の2月28日のご飯がまだ少し白く残っていました。



→  船橋市役所広報の紹介
 



漁師総代供養塔   



大仏の真後ろには、
亡くなった総代お二名の、
戒名連名の供養塔が建っています。



 
あ、そうそう。
こちらのお釈迦様。
大仏にしてはあまりに小さいからか、
上の船橋市の広報にも書いてありますが、
別名「飯つぶ地蔵」とも呼ばれてるとか。




頭、パンチパーマ(螺髪)じゃないしねぇ(笑)。




でも、いくらなんだって、
天上天下唯我独尊の「釈迦如来」に、
地蔵菩薩」呼ばわりは失礼です。
とんだ「仏違い」といったところか。




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