シャクトリムシと尺について


今日も朝一で昨日選定した短期の代務の打合せ。
引継ぎを終えて11時頃に事務所に戻るも、
13時からは月例の「吊るされ上げ」会議が控えています。
ちょっと早めのランチに出ようと、
久しぶりにタヤパンと事務所を出て、
30m歩いた途端、携帯が着信。
先日クレームで交代した実務部隊員より、
現在進行形のアクシデントと、
その寸前のミスの報告とお詫びです。
とりあえずランチ、会議ともにそっちのけで顧客先に急行。
それからは方々に頭を下げて、
走り回っていただけで
また慌しい一日が終わりました。
背中を丸めてトボトボと帰宅。




姪とバスが一緒になる





津田沼駅のバス停で、
偶然、大学に合格したばかりの姪との邂逅。
同じバスに乗り並んで座り、
「この世の春」を謳歌する18歳の姪に、
「この世の初秋」の40歳の叔父は、
少しばかり元気を分けてもらいました。






はい、恒例の「愚痴」が終わりましたので、
今日もこれより貯金ネタで進行致します。。
さすがにこれで貯金は切れました。
明日からは借金生活です。(笑)




→ 多摩動物公園




さて先日、多摩動物園の昆虫生態園で、
久しぶりに"虫"の世界を堪能した私。
しかし今の私にはこういった見聞を広める場所は、
ただボーっと観ているだけではダメなのです。
最近の子供達の私への質問は、
文理共々、様々なジャンルで、
年々難しいものになりつつありますが、
今でもどうにか防衛している、
"何でも知っているお父さん"の尊敬の念。
これを守るには、常にどのような質問があっても答えられるように、
自分の中でのロールプレイングは欠かせない習慣です。




→ シャクトリムシ - Wikipedia




蝶の幼虫を眺めている中で、
シャクガの幼虫である尺取虫(シャクトリムシ)が、
なぜ「尺」なのか?がとても気になりました。
ご存知の通りシャクトリムシは小さな芋虫。
まるで人の手が、親指と人差し指で、
長さを計るかのような動きで前に進みます。
しかしこの虫はとても小さいので、
せいぜい計れても「寸」なはず。
なぜ寸取虫(スントリムシ)ではないのだろう。




ここでまず日本の現行?の尺貫法について考えます。



一里 = 三十六町
一町 = 六十間
一間 = 六尺
一丈 = 十尺
一尺 = 十寸
一寸 = 3.03cm


もはやほとんど使われていない尺貫法なので、
古今東西普遍なものと勘違いして、
ちょいとした歴史・時代小説やその他の論文でも、
そのまま換算している記述を多々見かけます。




ただし唐代・李白の「白髪三千丈」という表現。
大袈裟な中国的な誇張表現として用いられることが多いのですが、
これは白髪の全本数の長さを合計すれば、
この日本の現行の尺貫法でも、
充分に足りる長さ・約9km以上のようで、
実はあまり参考にはなりません。




しかしそもそも現在の「里」が日本では約4kmのところ、
中国ではたった約500mであって、
万里の長城」や「千里馬」といった表現にかなりの差が生じています。
「尺」もそもそもこの「里」と同じく、
その時代によってかなり変化しているのではないだろうか。
またまた凝り性な私はムキになって調べてみました。




尺は象形文字だった!!




ふむふむ、調べてみると大変面白い結果が出ました。
そもそも「尺」という字は象形文字であり、
手から伸びる、親指と人差し指を表わしている姿。
まさに尺取虫のその寸法の方法(笑)なのです。
なるほど確かに「尺取虫」です。




中国古代の殷の時代には、
この「尺取」により、
尺はおおよそ18cm以下を表わす単位であったようです。
人間の体長で表わす原始的な単位は、
西洋のフィート等と同様に、
その時代により長短の差が生じているのです。
ひょっとすると人間ももっと小さかったので、
「尺」ももっと短かったかもね。
おそらく「尺」は時代とともに、
どんどん長くなったものと思われます。




→ ドメインパーキング
→ 「丈六」関連の記事



これで真っ先に思い出したのは、
二年前にコメント欄でやりとりをしたメグテキさんの記事、
慈恩大師、基の身長「八尺」の換算と、
大仏の記事で何度か取り上げている、
お釈迦様の身長ともされる「丈六」についてです。





なるほど、空海が留学した唐代までは、
「大尺」「小尺」と二つの尺が存在しており、
この唐代の小尺の24.6cmであれば、
慈恩大師の八尺でも、196.8cmと、
充分、実在にありえる身長に縮みました。(汗)
殷の時代の尺、18cm以下とすれば、
お釈迦様の丈六も約4.85mから、
やっと2m88cm以下となり、
多くの大仏が、やっと大仏になりえます。(笑)





しかしまぁ、歴史・史実の数字的な実証・証明というものは、
万事が万事こういう流動的なものであって、
とても難しいことであると再認識した次第です。





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