宗派 顕本法華宗
本尊 十界曼荼羅
283-0015 東金市前之内320-1
「あい・永遠に在り」でも度々登場する、
関家と妻・あいの実家・君塚家の、
菩提寺であった安立山常覚寺ですが、
大体の方向を目指して走り辿り着くと、
民家の脇の路地の入口に、
この案内板がありました。
案内板には、
「関寛斎の養父素寿の碑と関家・君塚家の墓(常覚寺)」
と、あります。
安立山常覚寺は、
承応元年(1652)創建、
開基は現成院日賢。
日蓮を宗祖とする、
顕本法華宗のお寺のようです。
関家の墓地です。
養父、関俊輔は、
儒学者で雅号を素寿といい、
このすぐ近くの自宅に、
私塾「製錦堂」を開いていました。
関寛斎の最初の師であり、
司馬遼太郎のいう、
「高貴な単純さは神に近い」
寛斎の人格は、
この師の影響によるものです。
この「関素寿之碑」は、
明治三十年(1897)に、
門下生27人が建てたもので、
題額の書は寛斎が仕えた、
徳島藩第十四代の、
最後の藩主である蜂須賀茂韶。
撰文は寛斎が学んだ、
佐倉順天堂を継いだ、
二代目、佐藤尚中(舜海)。
関素寿之碑の向かって右にある、
関俊輔の墓石「素寿関翁之墓」には、
明治四年辛未四月
二十六日卒
養子寛建
と、ありますから、
寛斎の建立したものです。
寛斎は明治三年(1870)頃に、
名前を「寛」一文字に改めて、
以後「関寛」を名乗っています。
さて真新しい「関家」の墓は、
昭和五十八年(1983)に、
関静吉・貞子ご夫妻が建立したもの。
静吉氏は寛斎の七男、
又一氏の長男にあたります。
墓石裏の墓誌には、
素寿・年子夫妻、
寛斎・愛子(あい)夫妻、
又一・美都子夫妻も、
記されておりますが、
寛斎夫妻は北海道陸別町正見寺、
又一夫妻は東京都世田谷区森厳寺と、
それぞれの納骨地*1が付記されいてます。
あいの実家の君塚家の墓ですが、
本堂右奥にも墓地にも、
君塚家の墓が沢山ありまして、
どれがそのご実家なのか、
特定することは出来ませんでした。
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— makotojinrei@レブル1100納車待ち (@makotojinrei) 2021年4月25日
*1:寛斎夫妻の遺骨は正確には正見寺ではなく「寛斎の丘」に埋葬されています