288-0041 銚子市中央9
【東金・関寛斎ゆかりの地探訪】
→ 関寛斎翁之像その一
→ 関寛斎生家
→ 関寛斎産土神社(東金市東中・面足神社)
→ 関寛斎養父素寿の碑と関家・君塚家の墓(常覺寺)
→ 関寛斎養家跡(製錦堂学校屋敷跡)
【北海道陸別町・関寛斎ゆかりの地探訪】
→ 関寛斎資料館
→ 関寛斎像・その二
→ 関寛翁辞世歌碑
→ 関神社跡・ユクエピラチャシ跡
→ 関寛斎夫妻埋葬の地・関農場跡
⇩ ⇩ ⇩
さて、香取神宮から、
銚子方面を目指して走ります。
男には、何もないと分かっていても、
行かねばならない時があります。(笑)
まずは小見川大橋で利根川を渡り、
一旦、茨城県に入るっぺよ。
常陸川大橋で、
常陸川水門を渡って、
神栖市を走るっぺ。
んだんだ。
銚子大橋を渡って、
千葉県に戻るべよ。
何もないと知ってはいたものの、
やはりどうしても来たかった、
関寛斎ゆかりの地・銚子編。
嘉永五年(1852)、
22歳となった寛斎は、
佐倉順天堂で修行を続けながら、
郷里の東金で仮開業します。
同年末に養父の姪である、
君塚あいと結婚します。
その四年後の安政三年(1856)、
ここ銚子で開業したのが、
医家としての第一歩となりました。
当時、発展していた銚子は、
師である佐藤泰然と親交の深い、
三宅良斎が開業していましたが、
泰然の推挙で佐倉藩医となり、
その後任の形で寛斎が入りました。
寛斎はここで現ヤマサ醤油の
七代能兵衛を名乗る浜口梧陵と出会います。
浜口悟陵は人材育成や、
社会事業に関心を持つ人物で、
この出会いが寛斎の後の運命に関わる、
大きな転機となります。
碑も寛斎開業と浜口悟陵の功績が、
左右セットになっています。
レブル1100で少々銚子の町をうろうろ。
銚子漁港から銚子大橋をバックに記念撮影。
屛風ヶ浦に向って銚子市内を走り、
九十九里を南下して蓮沼を目指しましょう。
⇩ ⇩ ⇩
⇩ ⇩ ⇩
— makoto-jin-rei@元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】 (@makotojinrei) 2022年1月9日