家康 の検索結果:

ヤン・ヨーステン記念碑

…ンも、 三浦按針と同じく、 徳川家康に気に入られ、ここに屋敷を拝領し、 日本人と結婚するものの、帰化はせず、 朱印船貿易で、帰国交渉に奔走しますが、 ついに、かなわず、 現在でいう、ジャカルタから日本への帰路に、 インドネシアで座礁して亡くなってしまいます。 荒れ狂う海を越え、極東に流れ着き、 文字通り、名を残した按針とヨーステン。 400年前の男たちにロマンを感じてしまいます。 ← 二つのブログランキングに参加しております。 ← よろしかったら応援クリックをお願い致します。

三浦按針屋敷跡

…1600)渡来、徳川家康に迎えられ て江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・ 地理・数学等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に 通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620) 4月24日平戸に歿した。 日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、また もと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで 安針町と呼ばれた。 日英ハーフの彼の息子が、 二代目三浦按針となったそうですが、 鎖国寸前に消息を絶っています。 それなのにこの地が昭和の初めまで…

平河山 本住院 法恩寺 〜太田道灌公墓所〜 

…請したものの、 徳川家康により奉遷された平河天満宮の移転先の地は、 後に現在の千代田区平河町になりますが、 こちらのお寺は幾度か移転を余儀なくされ、 最終的に元禄八年(1695)に現在地に移転します。 そして山号は当時のままに平河山と残しました。 それが現住所の太田道灌の「太」と、 平河の「平」が合わさって、 現在の地名「墨田区太平」となったという説がありますが、 なんだかちょっと怪しいです。 太田道灌、縁の寺ですから、 当然、こんな「道灌公記念碑」もあります。 やはり山吹の…

鳳凰山 本漸寺 〜東金城跡・酒井氏一族供養塔・宝篋印塔〜

…金御殿が造営され、 家康や秀忠の鷹狩りの際に使用されました。 そう、ここは我が家の前を走る、 東金御成街道の終着地点でもあるのです。 → 「御成街道」関連の記事 この千葉県立東金高等学校が、 城、御殿のその一部であることに間違いありません。 しかし文化祭でもなければ、 勝手に立ち入る訳にもいきません。 この正門のレンガは陸軍のものと似ております。 噂によれば、こりん星のお姫様は、 この高校の出身とか。 正門左手のこの独特の歴史のある建造物も、 結局なんなのか不明のままです。 …

佃 住吉神社

…)、東照御親命(徳川家康) 104-0051 中央区佃1-1-14 公式サイト http://www.sumiyoshijinja.or.jp/ 午後は豊洲の顧客に訪問後、 とある会社の役員さんが退任後、 違う会社の役員になると聞き、 月島の会社に伺ってみました。 これは二年前にも同様に訪問したんですけど、 その時同様、今回も空振りに終わりました。 その後、気を取り直す為、 月島、佃をちょいとぶらりとしてみました。 民家の庭先にこんな手押しの井戸が現存していたり、 朱塗りの佃…

花園神社

…は不明ですが、 徳川家康が江戸に入る前から存在していた、 大和吉野山よりの勧請されていたという古社で、 幕府開府後、当地に内藤新宿が開かれると、 その鎮守として祀られたそうです。 そもそも別称通り、こちらは"お稲荷様"で、 明治には「村社」に列し、名称は「稲荷神社」となりました。 これは一説には届出に「花園」を書き忘れたということで、 大正には改名され「花園稲荷神社」となりました。 これが今も根強い別称の理由です。 しかしその後の昭和三年(1928)に雷電神社を合祀し郷社に昇…

徳川家康像

…あったんだねぇ、徳川家康の銅像。 ・・・知らなかった。 亀の上にある石碑や墓碑を亀趺(きふ)といい、 この碑そのものの永続を願ったもののようですが、 ・・・しかし、これはどうでしょう。 おそらく家康の慎重さやしたたかさを表現したものではないでしょうか。 おや、鷹狩りの姿のようです。 この人がここから我が家の前を通過して、 狩場である東金に向かったのは、 今からもう397年前のことです。 ← 二つのブログランキングに参加しております。 ← よろしかったら応援クリックをお願い致し…

藤崎 子安神社

…に立ち寄った、 徳川家康が、この境内の藤の花に感動し名付け、 この地を「藤咲」、「藤崎」としたという説もあります。 天保四年(1833)に建てられたこの狛犬は、 馬油や、ジャラオに似て、 太っちょで、とってもユーモラス。 昭和五十七年に再建された、 この拝殿は、う〜んという感じで やや趣に欠けますが、 その裏の本殿に立ち入れるこの造りならば、 それはそれで、まあ、いいでしょう。 子安の杜と称された通り、 古社の裏の杜には、 大樹が鬱蒼と繁り厳粛な雰囲気を守り立てています。 ←…

藤崎墓地 〜融通念仏供養塔〜

…眺めていると、 徳川家康・秀忠の鷹狩りの為の街道、 東金御成街道の脇にあるこの藤崎墓地という墓域が、 かなり古くから存在していたと知りました。 元々、私の巡礼は、墓巡りから始まったものなので、 云わば私のソウル・テーマ。(←なんじゃそりゃ。) 古い墓石が掃苔出来るかもしれません。 小高い丘陵のような台地にある、 住宅街の真ん中にぽつんと浮かび、 時間の波から取り残されたかのような霊園です。 墓地内中央に塚のような円丘があり、 石段が設けられ、 頂上の多数の大木の間に、 石柱の…

常栄山 心法寺 〜竹尾善筑・井沢弥惣兵衛為永・眞野是翁墓〜

…な浄土宗の信者、徳川家康と共に江戸に移転したのでしょう。 本尊の木像阿弥陀如来坐像は、 十二世紀から十四世紀の間の製作とされています。 二百年の不自然なスパンがあるのは、 お顔や寄木造りの様式が、 平安後期に多く見られる定朝式に近いものであるのに、 胸腹部が厚く、鎌倉期の新様式であって、 後頭部や左腕の一部や右腕の全部が、 更に後世の補修であると断定出来るからなんだそうです。 代表的な寺宝は他に、 元文年間(1716〜1741)に作製された、 「紙本着色 仏涅槃図」があります…

大國魂神社

…植え、 その後、徳川家康が関が原・大坂の両役の戦勝御礼で、 補植したと伝わる国指定天然記念物の、 「馬場大門欅並木」があります。 写真は大鳥居の向かって右の大欅。 ・・・迫力です。 随神門をくぐると、 明治十八年(1885)建てられた拝殿。 そして、その奥には寛文七年(1667)、 四代将軍徳川家綱の代に建てられた、 なかなかと絢爛豪華な本殿があります。 古地図や、古文書、 そして時代小説の一部には、 ここは「六所宮」と記されていることが多いのですが、 こちらはなんと武蔵国府…

東京都恩賜上野動物園〜旧寛永寺五重塔〜

…した。 東照宮は徳川家康を祀る神社ですが、 神仏習合の時代、 他の神社でも多いのですが、 仏像を祀ったり、般若心経を唱えるなど、 多くの仏教的な色合いを持っていました。 → 【他の神社】上野東照宮 → 【大仏】【他の寺院】上野大仏その一 なんとこの上野東照宮・・・、 神社でありながら、 五重塔があったのです。 → 【本・雑誌】「五重塔」 以前ここで、 「江戸四塔」の一つを「上野寛永寺」のものと書きましたが、 正式にはこれ寛永十六年(1639)に、 寛永寺ではなく、 東照宮の一…

海厳山 普光院 徳願寺

…たそうですが、 徳川家康の帰依で堂宇を建立し、 「徳」の字をもらいこの名になったとか。 門前には大きな石のお地蔵さんと、 その右隣にこの永代橋溺死者供養の碑がありました。 なんでも文化四年(1807)に永代橋が突然落っこちちゃって、 多くの溺死者が出たそうなんです。 そんな悲劇知らなかったなぁ。 うげげぇ、入口左には、 お馴染の「不許葷酒入門内」の碑が・・・。 臭い野菜を食ったものや、酒を飲んだものは、 不浄なんだからこの門内には入っちゃダメというやつなのです。 すみません、…

「密謀」(上・下)

…います。 ただ、徳川家康に逆らったという事実が、 後の政府からすると「天晴れ」な訳で、 大正十三年(1924)に従四位を追贈されることとなり、 昔と今の評価はかなり違ってしまったのでしょうね。 実際、米沢藩では上杉鷹山が藩主になるまで、兼続は、 「東照宮に刃向かって藩の存続を危うくした奸臣。」と、 評価されていたとも聞きます。 ともかく、この本には、 藤沢周平さんがあまり描きたくなかったという、 「キラキラ光る」戦国武将たちが多く登場します。 そんな「光る」歴史の主役級への評…

「江戸天下祭」って

…、 神武天皇、 徳川家康、 東郷平八郎、 牛若丸、 弁慶、 弁財天、 張飛、、、等々と、 何でもありの様相です。 とっても面白そうで、 是非、観てみたいお祭りなんですが、 残念ながら、私は明日は、 「天下祭」ならぬ「徒歩祭」(?)・・・。 さっさと寝て、明日に備えねば・・・。 → 「習志野街めぐりウォーキングフェスタ!」に参加するぞ そもそも「天下祭」とは、 「御用祭」とも呼ばれた、 「江戸総鎮守」神田明神の神田祭と、 「江戸郷総氏神」山王日枝神社の山王祭の事を言います。 過…

【坂東第二番】海雲山 岩殿寺 (岩殿観音)

…来ます。 この本堂は家康が修復したものだそうですが、 こちらもそもそもは行基菩薩伝説のお寺です。 また、源頼朝もここで祈願し、 無事、房総に逃れることが出来たので、 生涯「守り本尊」として参詣していたそうです。 本堂本尊も行基作と伝わりますが、 本堂裏手の奥の院の石仏も行基作と云われているとか。 暗くてあんまり良く見えませんでした。 納経所のすぐ横には泉鏡花の句碑がありました。 普門品 ひねもす雨の 桜かな 確かに、お経と春雨に舞う桜の花びらが想像出来ます。 ← 二つのランキ…

葛飾八幡宮

…頼朝、太田道灌、徳川家康という、 関東に関わる武家オールスターズに近い、 「もののふ」達の信仰を受けた由緒正しき八幡神社です。 こちらに限らず八幡神社の主祭神は、 言わずと知れた応神天皇。 大概その母、神功皇后も合わせて祀っていますから、 皇室色が強く、明治維新の神仏分離では、 別当であった寺院は廃寺となったものが多いです。 こちらにも天台宗寛永寺の末寺、 「八幡山法漸寺」が別当としてありました。 ですから、この随神門には、 本来阿吽の仁王がありましたが、 現在は行徳の徳願寺…

大原大宮神社

…のサイトには、 徳川家康の鷹狩りの、 「御成街道」の完成に合わせて遷座なんて、 書いてありますけど、 御成街道の造成は慶長十九年(1614)のこと。 文禄元年(1592)では、関ヶ原の八年前・・・ ??ちょっと違うでしょ。 と、つっこみを入れたいところ。 また、こちらは以前紹介した、 三山の七年祭では、 「伯母」として参加します。 なぜ、「伯母」なのかといえば、 三山の二宮神社の主祭神が「建速須佐之男命」(スサノオ)であるのに対し、 こちらの主祭神が「伊奘冉命」(イザナミ)で…

船橋東照宮 (船橋御殿跡)

祭神 徳川家康公 徳川秀忠公(?) 273-0005 船橋市本町4-29 昨日、上野東照宮の記事を書くために、 東照宮について調べていると、 地元の船橋東照宮が、 「日本一小さい東照宮」であることを知りました。 東照宮にまったく興味のなかった私ですが、 上野東照宮にお参りして度肝を抜かれ、 ちょいと東照宮ミニ・マイブーム中なもんですから、 日本最小と聞いては、 さっそくお参りしてみましょう。 さすがに妻子はついてきてくれません(泣)。 「千葉県の歴史散歩」で、 おおまかな場所…

上野東照宮

祭神 徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公 110-0007 台東区上野公園9-88 なんと、皆様のご協力により、 史跡・神社仏閣 人気ブログランキングとブログ検索 - 歴史ブログで、 第一位になることが出来ました。 誠にありがとうございます。 さて先日上野大仏の 写真を撮りたくて、上野に出向いた時に、 意外なことに、こちらに初めてお参りして、 あんまりにも凄くてびっくりしちゃって、 今日また改めてタヤパンと、 お参りしました。 私の勝手な基準では、 どうもここ千年以内に人間と…

大石良雄他十六人忠烈之跡 〜旧細川邸のシイ〜

…ち、 他の三つの大名家も、 三河国岡崎藩主水野氏の中屋敷跡は灯篭が残るだけ、 伊予松山城主松平隠岐守の三田中屋敷跡はイタリア大使館、 長門長府城主毛利甲斐守邸跡は六本木ヒルズとなっています。 徳川家康に「月の岬」と呼ばれたこの地も、 元禄の世とはまったく変ってしまったことでしょう。 その頃からずっと変らずに、 今も人の世を変らずに見つめているのは、 藩邸跡の高松中学の裏手に聳える、 この大きな椎の木だけなのかもしれません。 ← 最近は真面目に「歴史ネタ」を書くと必ず落ちます。

仏母山 駒形観世音・駒形大仏

… 東金御成街道は徳川家康の鷹狩りの為の道であったので、 歴史のある街道らしく由緒のある史跡が多く残ります。 境内入口の左の石柱碑には「駒形大仏」、 右には「仏母山 駒形観世音」とあります。 「山号」は「仏母山」とありますが、 「院号」「寺号」はありません。 境内にはこの如意輪観音等の石仏や、大師堂らしき祠、 そしてお墓がポツンポツンと建っていますが、 寺務所に見えた建物は、地元の公民館のようで、 常駐している方はいないようです。 お寺としては機能していないんですね。 本堂参道…

意富比神社 (船橋大神宮) 〜船橋大神宮灯明台〜

…義家、源頼朝や、徳川家康、明治天皇の厚い信仰を受けました。 鎌倉時代には日蓮がここで断食し、 曼陀羅と剣を奉納したともいわれています。 家康の上覧相撲に始まる奉納相撲は今も行われています。 立派な土俵がありました。 境内にある日露戦役記念碑の揮毫は、 とっても丁寧な楷書なんですけど、 誰が書いたのか見てみれば大山巌元帥でした。 あの人顔に似合わない字を書くんですねぇ。 境内奥に、よーく見ないと分からないんですけど、 木立の隙間に、六角形の灯明台が見えます。 明治十三年(188…

「真田太平記」(全十二巻)

ついに買ってしまいました。 真田太平記、全十二巻。 新潮文庫ですから、またまたYonda?CLUBの応募券が集まりました。 池波三大シリーズの時代小説、 鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛人・藤枝梅安とは違い、 歴史小説ですから、史実に近い進行になるのですが、 そこはなんてったって池波作品です。 池波自身のダンディな台詞は、 脇を固める創作された人々が語ります。 まだ二巻の途中なので、多くは語れませんが、 武田勝頼の切腹の場面、 これほどまでに臨場感を強く受けた文章は、 今までにあり…

NTV「ニッポン人が好きな100人の偉人」

…://www.ntv.co.jp/ijin/ ついつい全部観てしまいました。 なぬぅぅぅぅ!?。 大西郷が11位ですか・・・。がっかり。 10位の土方以下ですか・・・。 家康は6位。う〜ん、人気ないですね。 秀吉の4位、信長の1位は予想通り。 でも、ほぇっ!!。 坂本龍馬が2位ぃぃぃ。 ほわぁっ!?。 私も嫌いじゃないですけど、 それ、史実の坂本龍馬じゃなくて、 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の「竜馬」ぜよ。 でもまぁ、織田家には絶対仕えたくないけど、 亀山社中ならいいかなぁ〜。

梅上山 光明寺

… 以前、あるお寺で本堂を覗こうとして、 引き戸に手をかけた瞬間に警報ベルが鳴ったことが、 トラウマになってしまいました。 かなり不審なお参り姿だったと思いますよ。 へっぴり腰で合掌、「南無阿弥陀仏」。(笑) こちらのお寺の山号は「梅上山」。 天正十九年(1591)に第十七世住職の証高さんが、 徳川家康に紅梅を献じたことからだといわれています。 ほころび始めたこの紅梅も、その梅たちの子孫なのかもしれません。 ← 予想通り落ちたランキング。久々の「巡礼」でどこまで上がるのか!?。

徳川将軍家の宗派と墓地

徳川家康は熱心な浄土宗の信者でした。 ただし、彼のブレーンであり、 彼の死後も彼を大権現という神に祀り上げた「天海」は 天台宗の僧だったんです。 そんな訳で徳川幕府は、 家康が最初に江戸にきたときに、 菩提寺と定めた浄土宗の芝の増上寺と、 天海が江戸の鬼門に、 東の比叡山となれと東叡山と名づけた、 天台宗の上野の寛永寺を W菩提寺としましたので毎回毎回幕府の要人が亡くなる度に、 やれ葬儀はこっちだ、 やれ墓地はあっちだと、 両寺で争っていたようです。 将軍の墓地だけで言えば、…

無量山 傳通院 壽経寺 〜於大・千姫、清河八郎、柴田錬三郎、沢宣嘉、杉浦重剛、佐藤春夫墓〜

…伝通院とはそもそも、家康のおっかさん、於大の方の戒名。 この写真では分からないとおもいますが都内最大級の五輪塔です。 このお墓のために寿経寺を移転したことがこのお寺の発祥となります。 その後も徳川ゆかりの女性や男児が多く葬られ、 今もなお巨大な墓石が多く残ります。 他にも柴田錬三郎、沢宣嘉、杉浦重剛、佐藤春夫と、 多くの著名人の墓が並びます。 しかし、何度もお参りしているお寺に今日私がきた目的は 先日の約束の、 清河八郎とその妻・お蓮のお墓です。 清河八郎の本名は斉藤元司。 …

平河天満宮

…です。 その後、徳川家康が平川門外に奉遷して、この名になり、 そのまた後に現在の地に奉遷されてここの地名が平河町となりました。 鬼平犯科帳の中で、ここの別当は「天台宗の長松寺竜眼寺」とありました。 ほぇ!?確か、ここの別当って、 【御府内88第六十二番】鶴亭山隆全寺ではないのでしょうか。 竜眼寺さんという名前で検索すると 亀戸天神の別当で天台宗の慈雲山無量院竜眼寺というお寺さんがありますが、 池波氏の間違いなんでしょうか。???? 境内は写真撮影に許可が必要と書いてあるので遠…

芝大神宮

…は私も一票。お日様あっての我々ですよね。 外宮は豊受大神。相殿には源頼朝公、徳川家康公。 そもそもこちら、元は、今の増上寺があった場所にあったとか。 末社には十六社*1と「神様オールスターズ」の様相です。 ↑ちょっとこの絵イメージ違いますが・・・ ここにコメントを書かないとランクが下がります。→ *1:大国主命、事代主命、大物主命、伊弉冉命、建御名方命、木花開耶姫命、手力男命、小彦名命、品陀和気命、天児屋根命、宇迦之魂命、大綿津見命、須佐之男命、菅原道真公、保食神、市杵島姫命