家康 の検索結果:
…は、 門徒だった徳川家康が、 政権を取った後の、 江戸時代以降のこと。 元々ここは法然が後半生を過ごして、 亡くなって、葬られた所縁の地で、 嘉禄三年(1227)には、 延暦寺の衆徒により、 破壊されたこともあります。 御影堂の西に建つ阿弥陀堂は、 明治期に建てられた唯一の建造物。 その昔、阿弥陀堂は第二世源智によって、 元の法然の住房のあった、 勢至堂の前に建立されますが、 宝永七年(1710)にここに移築され、 廃仏毀釈で荒廃して取り壊され、 明治四十三年(1910)に再…
…すが、 この道は徳川家康や秀忠が、 鷹狩りの為に通った道。 グリーンさんが、 見たことがないというので 久しぶりに将軍の休憩所、 御茶屋御殿跡を見学。 ご覧の通り今も空壕が残るなど、 鷹狩りがレジャーではなく、 軍事訓練の一環であったことを、 サクっと簡単に解説し、 更に御成街道を進みます。 御茶屋御殿 その → 一、二 → 「御成街道」関連の記事 さて、第一目的地の、 富田都市農業交流センターにトウチャコです。 春には一面の芝桜で有名なこちらですが、 秋にはコスモス(秋桜)…
… 信長の死後、秀吉と家康の庇護により、 早くから再建されたので、 比叡山延暦寺よりも、 国宝・重文の建築物を多く有しています。 特に秀吉は幼名が「日吉丸」、 あだ名が「猿」だったことから、 特別な神社として復興に尽力したとか。 西本宮楼門は重文で、 よく見ると四隅を猿が支えています。 同時期の拝殿も当然重文です。 西本宮本殿は国宝で天正十四年(1586)の建立。 「日吉造」という独特の形状で、 床下にかつて仏事を営んだという、 「下殿」があります。 ご祭神は大己貴神です。 境…
…三代家光により、初代家康、二代秀忠を祀ったもので、 落成は寛永二十年(1643)でどちらも国指定重文。 向かって右は「安国院殿霊廟」。 つまりは家康の霊屋。 正式な戒名は、 「安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」 ですが、 「東照大権現」の神号もある家康ですから、 霊屋の前に鳥居があります。 向かって左は「台徳院殿霊廟」。 要するに秀忠の霊屋。 戒名は「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士」。 霊屋の造りに大差はありませんが、 神号がないからなのか鳥居はありません。 リーフレットによると、…
…上人・聖武天皇・徳川家康を祀る本願堂となり、 近年、老朽化による改修工事の後には、 国宝の和上像の製法を忠実に模して製作された、 「お身代わり像」を安置しています。 この本物の国宝・鑑真和上像は、 やはり十年以上も前に上野で拝見しましたが、 通常は年間数日しか公開されません。 ですので、この重文・御影堂も、 通常は非公開で、この門の外から伺うのみ。 毎年六月六日の開山忌舎利会の前後三日、 堂内が公開されて国宝・鑑真和上像に拝せます。 金堂の西側、僧になる為に、 授戒が行われる…
…っ越し大名」と渾名された、 家康の子・結城秀康の孫、松平直矩。 この悲運の史実をベースにして、 「ひきこもり」「かたつむり」と呼ばれる、 架空?の主人公・片桐春之助が、 「引っ越し奉行」に任命され、 獅子奮迅するという時代劇コメディ。 いやいやあーた、もう、 土橋さん過去二作と同様に、 そこは押さえねばならない歴史考証は、 けして大きくハズレることはなく、 それでいて現代風の笑いを、 大胆に持ち込む著者の洗練されたセンス。 今回もマジに参りました。 次回作がホント楽しみデス。
…た、 御成街道は徳川家康・秀忠・家光が利用した、 東金までの鷹狩の道。 この御茶屋御殿跡をかすめて、 更に東金方面へと進みます。 → 御茶屋御殿跡 〜習志野⇄九十九里サイクリング(1)〜 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 菜の花がまだまだ美しく心が洗われます。 心臓も特に異常を感じません。。。 本日の第一目的地、 千葉市富田都市農業交流センターの入口に到着しました。 このセンターにつきましては、 公式サイトをご覧ください。 意外なこと…
…1605)に、 徳川家康が関ヶ原戦勝御礼で奉納した、 先代の本宮で、 現在の本殿造営後に、 こちらに遷したものです。 そして凹形の鹿島神宮の要石。 こちらが大鯰の頭を押さえている方。 古来の参道に逆行して、 禊の場であった御手洗池で手水をつかい、 鹿島神宮を後にしました。 朱塗りの神宮大橋で北浦を渡って、 舗装のあまり良くない国道51号線を進み、 水郷大橋で千葉県に戻り、 いびつは三角形を描いて、 真っ暗な道の駅・水の駅さわらに戻りました。 チャリを積み込み、お土産を買ってか…
…軍である三代家光。 家康を尊敬する気持ちは一際強かったと云われ、 おそらくこの日光山内に、 祖父と同じように祀られたいという、 本人の遺志があったのでしょう。 ただ祖父は神となり東照大権現となり神社ですが、 家光の大猷院殿大相国公はあくまで戒名。 ですので、あくまで寺院の諸堂です。 寺院らしい常行堂と法華堂はやはり重文。 左右に阿吽の金剛力士を祀る仁王門をくぐると、 ここから先は、ほとんど神社のよう。 仁王門の先に、 まず宝庫があるのも、 東照宮の神庫と同様。 御手水はよく見…
…格官幣社 祭神 徳川家康公・豊臣秀吉公・源頼朝卿 321-1431 日光市山内2301 公式サイト http://www.toshogu.jp/ → 上野東照宮 → 船橋東照宮 → 芝東照宮 → 「東照宮」関連の記事 日光といえばやはり、 世界遺産ともなっている、 日光東照宮、日光二荒山神社、 そして日光山輪王寺の二社一寺。 明治の神仏分離前は、 神仏が混然となっていたようですが、 明治政府とすりゃあ、 そこは家康を祀る東照宮だもの、 神仏分離令により、 いろいろ複雑な事情が…
…、伊場仙さん。 徳川家康と共に江戸に上がった浜松の商人、 伊場屋勘左衛門さんによって創業され、 その初代の出身地が遠州伊場村*1であったことから、 この屋号になったそうです。 創業の年はこの初代の生誕年だそうですから、 ちょっと"盛って"いるんすね。 何はともあれ、 こちら明日から夏季休業だそうで、 一部除外品を除き30%引のセールスちう。 実は先日、浅草・文扇堂で購入した白扇は、 まぁーちゃの頭をポコポコ叩いていたせいか、 たった数日で紛失してしまい、 とても困っていたとこ…
…に陣を置いた、 徳川家康が境内の坂にあった松を讃えて、 「坂松山」の山号と寺額を贈ったそうです。 とても奇抜で現代的な山門に、 彫刻家・神戸峰男さんによる、 サンダ&ガイラにも似た阿吽の仁王像。 門前でベビーカーに乗った小さな赤ちゃんが、 この仁王が怖かったのか、 ひきつって号泣していましたけど無理もない。 境内にあった歴史のある諸堂は、 大阪大空襲で灰燼に帰し、 伽藍は戦後に再建されたものです。 また境内には、 この上総大多喜藩二代藩主、 本多忠朝の墓とされる、 巨大な五輪…
…す。 大坂の陣で徳川家康を、 二度ギリギリまで追い詰めたものの、 力尽きこの境内の松の下で休んでいるところを 松平忠直の鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、 「わしの首を手柄にされよ」と告げて、 討ち取られたとされています。 しかしここはどうみても高台で、 戦略上の拠点のような場所なので、 敗戦の傷ついた将とはいえ、 天下の勇将が一人で休み、 たかが鉄砲組頭の雑兵なんぞに、 発見されるところとは思えない。 家康はこの時将軍職を、 秀忠に譲っているとはいえ、 まだまだ大御所現役で、 …
…すが、 この道は徳川家康が東金で鷹狩りを行なう為、 慶長十九年(1614)に土居利勝の指揮で造成された、 船橋から東金までの八里余(約36km)の街道。 家康・秀忠・家光が合計12回使用しました。 昔はほぼ直線だったそうですが、 現在は何度か曲がらなくてはなりません。 四街道を越えて再び千葉市内に戻ると、 急に道幅が狭くなります。 大きな門のある豪農が多くあり、 古くからの集落であったことがわかります。 上のリンクの船橋御殿・東金御殿とともに、 将軍の休憩所として建設された御…
…(1605)、 徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に奉納したもの。 元々はこれが本殿でしたが、 十余年後に息子の秀忠が新たな社殿を建て、 父の旧社殿がこの位置に遷されました。 奥宮から右に進むと、大鯰の碑があります。 さて鹿島の要石。 水戸光圀さんたら、 さすがはこちらは、 自分の地元なので、 七日七晩にわたって掘らせたそうですが、 やはり結局根元に辿り着かず、 怪我人が続出したそうです。 美しい湧水の御手洗池。 鹿島神宮七不思議にもなっていますが、 この池は誰が入っても、 胸のとこ…
…この御成街道は、徳川家康が鷹狩りで東金に向かう為に造られた道で、 当時の佐倉藩主・土井利勝が、昼は白旗・夜は提灯を掲げて造成したとされ、 「一夜街道」「提灯街道」と呼ばれていたとか。 この巨大な椎の木の老木。 → 「御成街道」関連の記事 天明七年(1787)、天戸村の「伝右衛門」が建立した、 この六十六部供養塔があります。 → 「六十六部供養塔」関連の記事 六十六部供養塔については過去に何度か記事にしておりますが、 白衣に六部笠を被り、全国六十六ヶ所の霊場を巡り、 修行をした…
…桶狭間」 → 「神君家康の密書」 宮本武蔵〈上〉 (新潮文庫)作者: 加藤廣出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2012/09/28メディア: 文庫この商品を含むブログを見る宮本武蔵〈下〉 (新潮文庫)作者: 加藤廣出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2012/09/28メディア: 文庫この商品を含むブログを見る 加藤廣さんの文庫化最新作。 いつも題名に凝る加藤廣さんなのに、 ずいぶんシンプルなタイトルだなって思ったら、 単行本は「求天記」だったようで、文庫化の改題です。 求…
…kipedia 徳川家康の側室、甲斐武田一族・秋山虎康の娘、 於都摩、於津摩、または下山殿、妙眞院ともよばれる秋山夫人の墓です。 家康の第五子、武田信吉を生みました。 この墓石は信吉の甥にあたる水戸光圀が、 貞享元年(1684)に建立したものです。 水戸黄門こと徳川光圀については、 このブログに度々登場しております。 関連記事は下記参照願います。 → 「光圀」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 歴代墓 中央・巨大な日蓮、左右に日朗、…
…空白の桶狭間」 神君家康の密書 (新潮文庫)作者: 加藤廣出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2013/09/28メディア: 文庫この商品を含むブログ (1件) を見る 加藤廣さんの文庫化最新作。 関ヶ原の合戦直前に、 徳川家康と福島正則の間で交わされた密書とは。。。 表題作他、二篇の中編集。 いつもの独自の「加藤廣・歴史観」ワールドが溢れていて、 夢中で読み終えたものの、やっぱりどこか、 「信長の棺」三部作の余り物のエピソードを、 無理矢理に寄せ集めたような感が残りました。…
…尊氏、里見義実や徳川家康に信仰されて栄えました。 ただし元禄十六年(1703)の大地震で、 山頂にあった伽藍はほぼすべて倒壊し、 山の中腹に現存するこれら伽藍は、 ほとんどそれ以降に建てられたものです。 鐘楼は瓦が崩落していて、 危険なので近寄らないよう書かれていました。 実際、角の瓦の一部が下に落ちて割れています。 ほとんどの建物が元禄期の再建ながら 鎌倉時代に造立されたという阿弥陀堂。 中には、県指定有形文化財の、 木造阿弥陀如来坐像がいらっしゃいました。 同じく県指定有…
…を開いた天下人 徳川家康の遺愛品」 → 「三井本館」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 さて、今日は無償の休日早朝出勤。 休日の始発バスでは間に合いませんので、 会社には京成電車・都営地下鉄の経路を請求して、 実際には、自家用車で出勤します。 (それでもガソリン代と高速代−540円の赤字です・・・。泣) 東京スカイツリーがまたちょっと伸びました。 これだけの為に休日出勤したと考えてしまうことは、 精神衛生上、とても良くありません。 …
…東照宮があり、 徳川家康公が祀られています。 どうやら第十世宥円さんの時代、 慶長十八年(1613)に駿府城に呼ばれ、 大御所・徳川家康公に謁見し、 台命によって法論となるも、勝ち、 褒賞として寺領、朱印地百五十石を賜った恩義から、 この祠堂を建立したとか。 現存の祠堂は、享保十二年(1727)第十八世吽教さんによるもので、 やはり仏師円鉄さんによる彫刻でその時に徳川家光も合祠しました。 御供所の隣には鉄筋の六角堂。 本尊・薬師如来と、不動明王が祀られていました。 池には美し…
…していますが、 徳川家康の墓所をここ日光に定め日光東照宮とした、 慈眼大師天海の銅像がありました。 さすがは最後の大師様、108歳まで生きたという、 徳川家康のブレーンだった謎多き僧侶、天海さん。 明智光秀=天海説には少し無理がありますが、 明智家に近い方だという可能性は強いとか。 → 「天海」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 天海大僧正の銅像の隣には、 やはり先ほどから何度か登場した勝道上人が発見したという、 磐裂霊水と名づけら…
祭神 徳川家康公 105-0011 港区芝公園4-8-10 公式サイト http://www.shibatoshogu.com/index.html 増上寺南側、ザ・プリンス パークタワー東京と、 区立芝公園のさらに南に、芝東照宮があります。 鳥居神額「東照宮」は徳川家16代、徳川家達の揮毫です。 家達といえば、大政奉還後の徳川家当主。 実はこの神社、やはりそもそもは増上寺と同体であったものを、 明治の神仏分離によって独立したもので、 そもそもは先述した増上寺の「安国殿」その…
…ものの、 そもそもは家康の寄進。建物そのものは、 都の有形文化財にとどまっていますけれど、 本来中に収蔵されていた各大蔵経は、国の重要文化財に指定されています。 さて三門前の参道に戻り、 正面左側の手水場、水盤舎に注目。 これはそもそも清揚院(綱重)霊廟にあったものでした。 実はこの芝増上寺、元は現在の東京プリンスホテル、 ザ・プリンス パークタワー東京、そして 区立芝公園一帯を含む広大な敷地を有していましたが、 昭和二十年(1945)の二度の空襲直撃で、 甚大な被害を受け、…
…路】跡地 → 「徳川家康」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 私はへそ曲がりな、判官贔屓な性質なので、 正直、徳川家康は好きな武将・政治家ではありません。 ただ戦国で唯一、最終的な成功者となった、 彼のあの「鳴くまで待った」性格には、 少なからず尊敬の念は持っています。 そして彼が作りあげたこの「江戸」→「東京」は大好きな街です。 会期終了間近です。ちょっと小遣いがピンチですが、 やっぱり行っちゃいましょうか。 常設展は三井財閥、三…
…の地にあって、 徳川家康入城のみぎり平河門口に移り、さらに田安門口に移り、 その後、牛込の現地に移転しました。 正面にあるのは本堂ではなく聖天堂で、この通り大歓喜天王像と、 江戸三十三観音の十一面観音菩薩が、その本地仏として祀られています。 本堂、薬師瑠璃光如来が鎮座するのはその左側。 一階玄関手前の階段を上がります。 神楽坂大仏とも呼ばれる、 この丈六の薬師如来。 先ほどの赤城神社も全焼した、 東京大空襲で、このお寺も焼けてしまいますが、 大仏様は、お顔、お手、薬壺が奇跡的…
祭神 徳川家康 275-0003 習志野市実籾本郷9付近 → 「徳川家康」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 → 「東金御成街道」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地 食べたカロリーを少しでも消費したく、 今週も長男のチャリを借りて歴史サイクリングへと旅立ちます。 今日のターゲットは習志野市南東部。 実は以前、東金御成街道における、 徳川家康の足跡を追ったことがありますが、 その時、いつか行…
…とは、この地が、徳川家康入府の頃には、 南北約八丁(872.7m)の鉄砲のような形をした、 細長い川口の島だったことに由来します。 ただし当時は現在の地よりも北東にあったという、 稲荷橋の南東詰にあったそうで、 現在地に遷座したのは明治元年(1868)のことです。 大鳥居の手前には、渡来系なのでしょうか。 この小さなユーモラスな狛犬がとてもいいです。 関東大震災で甚大な被害を受け、 昭和十年(1935)復興・整備された境内。 この正面の拝殿も、 境内左手の神楽殿も、摂社八幡神…
…年(1605)に徳川家康が本殿として奉納したもので、 現在の社殿の「元和の造営」に際して、 ここに移設され奥宮となりました。 戦国時代遠からぬ頃の、質実剛健な造りです。 さてここで参道は左右に別れます。 ここにある売店の前に、明和三年(1766)、 松尾芭蕉の句碑があります。 「此の松の 実はえせし世や 神の秋」 まずは右を選び、要石を目指すと、 その途中、大神が鯰を踏みつける石像があります。 ここが「要石」です。 大神が降臨した際の御座ともいわれ、 地震を起こすという大鯰の…